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文化の壁を越えて

 2003年初夏に、ある映画がヒットした。「マイ・ビック・ファット・ウェディング」(監督:ジョエル・ズウィック 2002/米)である。脚本と主演を務めたギリシャ系のニア・ヴァルダロスは、彼女自身が経験した実話であるこの映画について「息苦しくなるほどあなたを愛しているすべての家族、少数民族系のすべての家族についての映画だと思います。必ずしもギリシャ系である必要はなくて、イタリア系でもポルトガル系でも日系でも中国系でも、家族はみんな同じなんです」とこの映画の公式ウエブサイト(http://www.mybigfatwedding.jp/)で語っている。

 他方、去年の全国高校野球選手権には日系ブラジル人の選手が出場し、今年は日本人と外国人の親を持つ選手が力投したことは記憶に新しい。また日本の国技である相撲界にもモンゴル、ハワイを筆頭に遠くは南米から力士が来ており、オールドカマーやニューカマーを含めてますます多文化社会の様相を呈している。今や、京都や奈良などの国際的な観光地は言うにおよばず、ちょっとはずれた地方のローカル線の電車のなかでも、外国人にであうことは珍しくない。そんな彼らとつき合う方法のヒントを、映画が教えてくれる。冒頭の映画では、ギリシャ系の家族とその共同体である親類が、自分たちと異なるアングロ・サクソン系の娘婿をどのように迎え入れるかが、コメディータッチで描かれている。

 また、マジョリティ集団とマイノリティ集団の軋轢を描いた異色の映画として、アメリカンコミックとして有名な「X-men」(監督:ブライアン・シンガー 2000/米)、その続編である「X-men2」(監督:同上 2003/米)がある。「特殊な力」を、ある日突然自覚したミュータントたちと、その力を驚異に思いミュータントを隔離監視しようとする人間たちのドラマである。「X-men2」の作品評によると「ミュータントが人類を越える能力を持っていることから、ミュータントに脅威を抱く人類の特権階級がマイノリティのミュータントを疎外するという悲劇だ……ミュータント狩りを始めた大富豪ストライカーの登場によって、プロフェッサーXをキング牧師にマグニートをマルコムXに見立てた設定にもさらに説得力が加わっている。すなわち、前作のマイノリティ側の思想対立のドラマがキング牧師とマルコムXの晩年の関係を思わせる『共存』のメッセージへと進化しているところも見逃せない」(みのわあつお著,『キネマ旬報』2003年5月下旬号所収)と記されている。また、象徴的なセリフである「アメリカの看板は「寛容」と「平和」だった…(しかしこの国には)寛容も平和もなかったから、この国だけでなくどこにも、権力者と血が異なるだけで、女、子供まで殺された(マグニート)……みなさん、ミュータントの存在は今や現実。我々の中にいる。我々は彼らの実体と彼らの持つ能力を知らねばならない(ケリー上院議員)……ミュータントと人間の双方が、戦争を予感してます……大統領閣下、今こそ世界に問いかけてください。過去の過ちを繰り返すか、力を合わせてよき未来を築くか(プロフェサーX)」は印象的である。

 2002年末から翌2003年にかけてヒットした、「ギャング・オブ・ニューヨーク」(監督:マーティン・スコセッシ 2001/米=独=伊=英=蘭)は、19世紀初頭の米国ニューヨーク市を舞台に移民グループ間の闘争を描いている。南北アメリカの歴史は、ひとつの地域に世界から集まる民族が繰り広げる壮大な実験の歴史である。そんな彼らは、たえず異文化と隣り合わせで暮らしているので、拒絶するものはきっぱりと拒絶する。主演したレオナルド・ディカプリオは、来日記者会見でこの映画での役作りの感想を、こう述べている。

 「(演じた)アムステルダムは実在の人物ではないけど、アイルランド人の息子で孤児になった少年がどんな人生を送っていくか、想像しながら役作りをしたんだ。彼は悪いこともするけど、彼なりに一生懸命生き、周囲も彼を生かそうとする。その背景には、当時とても実験的だったニューヨークの町があるんだ。様々な人種や宗教を持つ人々が集まり、共存しようとする中で、この孤児の少年がどう生き延びるかを演じるのは、僕にとってとても面白い体験だった」。

 しかし、なぜ、人は自分と異なる文化・言語を持つ他者に対して、恐怖感を持つのだろうか。近年1968年に制作された傑作SF映画「猿の惑星」を、リ・イマジネーション(再創造)して大ヒットした、「PLANET OF THE APES/猿の惑星」(監督:ティム・バートン 2001/米)では、ひょんなことから未来の地球に舞い降りた宇宙飛行士が人間に取って代わって支配している猿に驚き、恐怖し、やがて抵抗する様子を映し出している。ヨーロッパ人は、大航海時代にアメリカ大陸に到着し、先住する民から大地を支配する立場となった。あとからやってくる世界中のひとびとに自分たちの立場が脅かされるのに恐怖して、彼らは先に来た者の強みとしてさまざまな規制をかけていく。とすれば、先に紹介した「ギャング・オブ・ニューヨーク」の冒頭のグループ抗争の場面で、「この国で生まれ育った我々と、この国を汚す移民どもとの抗争だ」というセリフ、アイルランド系移民が来る船着き場でのシーンで、「どこがアメリカ人だ。よそ者ばかりだ。白人や黒人の仕事を5セントで奪うアイルランド人だ。奴らが何の役に立つ」というセリフ、そして「俺の親父はアメリカの建国に命を捧げた。その栄えある国を汚すのか」というセリフのなかにヨーロッパ人の自己矛盾がみごとに描かれている。

 誰もが、自分は、自分たちは一番でありたいと思う。異なるモノを持つひとびとが周囲に多ければ多いほど、その思いが強くなりがちある。他者に対して排他的になり、ちょっとした事件でその思いがふくらむ。このような対立の悪循環から抜け出すには、他者の文化を認めることでしか、自文化のプライドを認めてもらえないという、認識を共有することが不可欠である。また、これは遠いアメリカ大陸で起こっていることではなく、われわれの身のまわりに起こっていることである。

 日系人や中国残留日本人孤児として日本に帰ってきた人々など、日本語を充分に話せない「日本人」がいる現実。また、近年顕著に増えてきた在日外国人など、日本でも急速に進みつつある多文化社会への心構えが必要となってくる。筆者は、人類史上、南北アメリカではじまったさまざまな民族が同じ土地に共存するという葛藤の姿を映画を通してときには見習い、ときには反面教師として学んでいこうと考えている。

 文化の垣根を越えようとする姿を映し出す映画としては、たとえば「セイブ・ザ・ラストダンス」(監督:トーマス・カーター 2001/米)がある。そこでは、アフリカ系米国人とヨーロッパ系米国人がヒップホップをとおして、さまざまな障害をのり越えていくストーリーで展開がなされている。「サルサ!」(監督:ジョイス・シャルマン・ブニュエル 1999/仏=西合作)では、主人公であるフランスの若き天才クラシック・ピアニストのレミが、ショパンを捨てて、情熱のサルサを選んだことから物語は始まる。彼はパリのラテンバンドへと飛び込み、バニラ色の肌をチョコレート色に変えて、伝説のキューバ人作曲家ベレートのもとでサルサのダンス・レッスンを始める。その後、サルサの本場である憧れの地、キューバへ舞台を移し、自分自身を受け入れてもらえるよう努力をする。「愛さずにはいられない」(監督:アンディ・テナント 1997/米)では、ニューヨークのビジネスマンが、ラスベガスでメキシコ人女性と出会い、彼女の精神的な源であるメキシコの文化を吸収するために、七転八倒努力する姿をコメディータッチで描き、物語は進行する。このように、島国に暮らし比較的共通する文化をもつ日本人にとって、このグローバル化する現在の状況に対処する知恵と態度を、映画に学んでみてはどうだろうか、と筆者は思っている。

(加藤康人・天理大学附属天理参考館主事)