Baseball

犠打の歴史

 今年日本のプロ野球界で犠打の世界記録を更新した川相選手(当時ジャイアンツ)のことが一時話題になった。そこで今回は大リーグでの犠打にまつわる話を、The Baseball Research Journal (Vol.25, 1996)に掲載されたBill Winansの“Bunts, Flies, and Grounders: A History of the Sacrifice”にもとづいて提供したい。

 犠打とは、打者が自分を犠牲(アウト)にして走者を進める打球を“はなったときに成立し、打数から除外されるのである。それはバント、フライ、ゴロのいずれかの形で現われる。犠打は長い大リーグの歴史の中でその記録上の扱い方もさまざまな変遷をたどってきた。

犠牲バント

 犠牲バントはその正確な起源はさだかでないが、およそ1860年代か1870年代とされている。Dickson (1989)によれば、Brooklynの遊撃手Dickey Pearceが1866年にバントをしたのが最初で、これによって新しい攻撃法ができたという。しかしその効果的な利用はそれから数年待たねばならなかったという。バントを一般的に広めたのはBostonの一塁手Tim Murnaneで1876年であった(Dickson)。しかしその戦略的な重要性が認識されるまでにはなお年月を要した。Fullerton (1912)は、バントは大リーグのみならず大学や日本のチームでも用いられており、1912年以前にすでに野球界で一般的になっていたとのことである。

 バントは打球を殺してコロコロと転がすのであるが、この仕方自体も、その起源と同様はっきりしないようだ。野球で「バント」という用語が最初に用いられた記録は1891年であった。その由来は“butt”にあるとされている。しかしWebsterユs Dictionaryはbuntはbuttのobscure alternative(1582年初出)としていると著者はいう。またDicksonは、これは鉄道用語で貨車を本線から支線に引き込む意味の用語に由来しているのでないかなどとして、いろいろな説がある。

 またバントの仕方も現在と異なってさまざまであった。Fullertonによると、「打者はバットを素早く持ちかえて、細い先端部分(今でいうバットの根元)でボールをたたき、転がした(興味ある方は試みては)。その後多くの打者は両手で軽くバットを支え、バットにボールを当てさせ転がした。さらに使用球の変化もバントに影響を与えた。Fullerton曰く1910年のシーズン後半に「飛ぶボール」(lively ball)が採用されバントの性格が変わった。つまり前年では犠打であったろう打球が、lively ballのお陰でダブル・プレイを招く結果となったとのことである。当時のSpladingユs Official Baseball Guide にはlively ballとdead ball(飛ばないボール?)の両方の宣伝広告が載っていたそうである。余談ながら日本でも一時期(昭和24〜26年頃)ホームランがもてはやされ、ラビット・ボールと称する「飛ぶボール」が用いられたことがあった。阪神タイガースの藤村選手や松竹ロビンズの小鶴選手は、それぞれ40本、50本以上ホムールンをかっ飛ばした。

 Murnaneはバント用の特別なバットまで考案し、バントの用法の発展に大いに尽くした。バットよりも「櫂」にちかい形で、ボールに当てるには好都合であったが、打球を強く遠く飛ばすにはもう一つであった。Murnaneはバットの片側を平たく削ってバントしやすくしたそうである。さらにバントのためにsquare barrelと称する四角いバットさえ考案されたが、長続きしなかった。

 犠牲バントあるいは犠打という用語が名詞形で新聞に始めて現われたのは1880年6月29日のInter Ocean紙(Chicago)であった。動詞形として現われたのは1905年9月2日のSporting Life 紙上であった。犠打がボックス・スコア(打席数・安打数など試合の統計的記録)に初めて現われたのは1889年であるが、犠打は成功しても打数として扱われた。これを前出の川相選手にあてはめると、500余りの犠打はすべて凡打扱いになったのである。また外野フライやゴロで走者を進めても、犠打と認めた記録に出会っていないと著者のWinansは言っている。Spalding紙(1898)はこれを取り上げて、チームプレイに励んでいる打者は正当に評価されるべき、としている。1890年代になって、Ned Hanlonがバントを広めて、始めて犠打の概念およびそれに関連した規則が認められた。HanlonはConnie Mackとならんで当代随一の監督と呼ばれ、試合に勝つためのありとあらゆる方法を考えた人であった。John McGraw, Wee Willie Keelerたちとヒット・エンド・ラン戦法を編み出した人でもある。

 1894年に犠打は打数から除外することが正式に決定された。その1年前の1893年にすでに犠打を打数からはずすやり方が実際に行われていたが、野球界全体にゆきわたるのは1897年になってからであった。1894年にはバントがファウルになったときには、これはストライク扱いとなった。これは現行の規則と同じだが、当時打者がバットを振り回してファウルをぶっ飛ばしてもストライク扱いされなかったから不公平である。Dicksonは犠打にたいする当時の不当な扱いを、Sporting Life (1886年3月3日)を引用して示してくれる。犠牲的プレイを選手が示しても報道関係者は、それを正当に評価しないと。Winansは今日 (1996年) でさえ、The Baseball Encyclopediaには個人の記録においても過去の名選手についても、犠打に関して何ら触れていないという。とするならば川相選手は、その500回目のバントが成功するかどうか、多くのファンに見守られていたとは何と幸せなことか。

犠牲フライ

 犠牲バントと違って犠牲フライは起源・歴史ともはっきりしている。1908年に打者はフライを打ち上げ、走者が得点すれば犠牲フライとしてきちんと扱われ打数から除外された。1926年には規則は拡大され、フライが捕球された後、走者が進塁さえすれば犠打と認められた。1931年にこの規則は撤廃され、1939年のシーズンは別として、1954年にまた戻ってきたのである。1954年の規則では走者が得点した場合には犠打となった。犠牲フライを認めるようになった理由は、打率を上げるためであったと思われる。とくに強打者の打率を上げるためであったらしい。強打者は沢山の犠牲フライをうちあげ、この規則の恩恵に浴するのである。WinansはMaracin (1991)を引用して非常に興味深い記録を示して呉れる。例えばRoger Hornsbyは1922、1925年に2回4割打者となっているが、犠牲フライの規則が適用されなければ4割に届かなかったのである。Ty Cobb (1922), Harry Heilmann (1923), Bill Terry (1930)、いずれも犠牲フライの恩恵で4割として記録を残している。他方この規則の恩恵を受けずに4割打者となったのが、今年死去した「最後の4割バッター」と言われるTed Williams (Boston Red Sox)である。1941年、4割6厘で首位打者となったが、シーズン最後の2試合(ダブル・ヘッダー)を欠場すれば4割を達成することが確実であったので、そのようにすすめられたがこれを潔しとせず、2試合で安打を量産し4割6厘という素晴らしい成績を残した。もし犠牲フライの規則が適用されれば、最終打率は4割1分1厘となっていたのである。個人記録のために試合を休んだり、いろいろ小細工をする日本のプロ野球はbaseballに値しない。

犠牲ゴロ

 これは記録上難しい問題をはらんでいる。打球の方向如何によって、走者が進塁したり、封殺されたりする。走者を進めた場合犠打として扱えという議論と、それは結果論であるとする賛否両論がある。犠牲バントも成功したら打数から除外され、失敗すれば打数に数えられるのもおかしいという議論もある。犠牲フライも別に狙ったわけではなく、結果からの判断である。打率計算の上で打数に入るか否かが、重要な結果をもたらすことになるのである。選手の評定、すなわち収入に影響する。たかが犠牲バント、されど犠牲バントである。

(榎本吉雄・天理大学言語教育研究センター教授)