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文化形成の原型から

                     岩 瀬 悉 有  

 

 アメリカのニューイングランド地方にイギリスから移住した白人たちの新大陸での文化形成については、たとえば、その地方で指導的な役割を果たした牧師コトン・マザーの著作『アメリカにおけるキリストの大いなる御業』(1702)の「総序」のなかに、その原型ともいうべき発言が見られる。すなわち、聖書によれば、益無きものは「外の暗闇」に放り出せということであるが、イギリスおよびヨーロッパの人たちからは「外なる暗闇」と思われている新大陸で、「金の燭台にあかあかと灯りがともされている」という誇り高いことばがそれである。つまり、闇を光に転じることができるという逆転の思想である。

 もちろんこれは、当時ヨーロッパに広がっていた新教徒運動を背景として理解されるべきことばであるが、世俗の世界における白人の文化形成についても大いに通用すると思われる。ヨーロッパの観点からすれば闇のイメージが与えられて否定されることがらに、肯定的価値を授け、そしてそれを光のイメージに転換するという精神の働きが見られるのであり、その転換のプロセスが社会全般にわたって進行したといえる。

 否定されるべきもののなかの最大のものは、新大陸の野生である。それはまさにヨーロッパの文明の届かない、外の世界としての大自然であった。それはまた、ネイティヴ・アメリカンの世界として、征服されるべきものとされた。ところがそれと同時に、白人が新大陸での真の生存を確立するためには、否定されるべきこの野生あるいは大自然と何らかの形で折り合いをつけ、それと共存をする必要があることを彼らは本能的に知っていた。野生あるいは自然との折り合いをつけようとする努力の跡が、白人の文化形成のなかに繰り返し見られるのであり、それをここではアメリカ文学を例にして述べようと思う。

 それは文学のモチーフとしては、文明圏と野性の世界、すなわち村と森のあいだの往復としてしばしば表現されている。早い例の一つが「メアリー・ローランドソンのインディアン虜囚記」(1682)である。白人と先住民との緊張関係のなかでこの女性は赤子を抱えたまま捕虜となり、きびしい冬の季節にニューイングランドのなかを、彼らの移動に伴って連れまわされる。のちに運良く開放されはするが、暴力的に押し付けられた野生の生活のなかでは、移動の途中では赤子を死なせているし、先住民の食べ物がひどくて食べられないと嘆き、食べようとした肉片も奪われるといったエピソードをも記録している。先住民を人間以下のものとする目も見られる。ところが、日がたつうちに、手袋を編む技術が評価されたことから夫人と先住民とのあいだに交流が始まり、また、はじめは喉も通らなかったまずい食べ物も次第においしいと感じるようになる。つまり、夫人は先住民の側の価値を部分的ではあるが認識するようになった。そのためだけではないが、彼女は虜囚からの解放という幸運をつかみ、文明圏に戻ってくる。

 宗教の支配した時代のものとして、この記録は、キリスト教信仰があったからこそ彼女の願いが神に届いて開放され、村に戻ることができたという物語的枠組みを与えられているが、この枠組みをはずして読めば、この記録は、意図せずして実現した、森と村との価値を仲介する文化的行為となっている。けれども、解放されて村に帰ったあと、森の世界の価値をどのように村のなかに取り入れたかの記録はなく、この時代の思考の限界をも暗示している。

 時代を17世紀に設定して書かれたホーソーンの短編物語「青年グッドマン・ブラウン」(1835)も、村と森のあいだを往復する青年を描いている。妻フェイスの制止も聞かず、一夜だけといって森のなかに入った青年がそこに見たものは、彼の両親、妻はいうまでもなく、村の教会の牧師や大勢の信仰厚い人たちが出席している夜の黒ミサの集会であった。村をキリスト教信仰の世界とし、逆に森を罪に穢れた悪魔の世界として色分けした世界のなかで、森から帰ってきたあとは森の経験が忘れられず、そのためにその後の彼の人生は暗い懐疑の一生になったと書かれている。これは森と村との価値のあいだに折り合いをつけようとして失敗した話として読むことができる。

 この物語は、新大陸における白人による文化形成の企てが、19世紀にあってもなおも重要なテーマとして存続していたことを示している。そういえば、ホーソーンの代表作『緋文字』(1850)も姦通罪の烙印を押されたヘスターが、彼女の真の居場所というべき森と、キリスト教化されている村のあいだを往復するあいだに、新しい価値を体現し、

村人の心を徐々に変えていく話であるし、未完に終わった晩年の小説『セプティミアス・フェルトン』(1872)も、イギリスからの独立戦争中に新しい価値を模索して森と村とのあいだを往復する主人公を描いている。

 『ウォールデン−森の生活−』(1854)の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソーロウは、生涯にわたって村と森あるいは自然とのあいだの往復を繰り返すことにより、森との関係のなかでアメリカ大陸における真の生存を確立した人であり、彼のエッセイ「歩く」は、新大陸での新しい生存形式のためのマニフェストになっている。

 エドガー・アラン・ポーはアメリカの大自然として限定はしなかったが、船を飲み込み破壊する海の大渦を、人間の理性を超える自然の混沌の姿として描いている。彼の「大渦に落ちて」(1841)と題する短編は、天候を見誤ったがために、大地をも揺るがす大渦に落ちたが、九死に一生を得て生還したかつての漁師が、その渦の恐ろしさとおそらくは魅力を教えるために、見物人を丘の上に案内する話である。彼は自然の大きな破壊力とのあいだに折り合いをつけて、新しい生存の形を確立するまでには至っていないけれども、すくなくとも村の外に、村の価値観や秩序を超えた大自然があることと、それを無視することはできないこととを人々に教えている。

 イギリス18世紀の典雅な文学に憧れたワシントン・アーヴィングでさえもが「リップ・ヴァン・ウィンクル」(1819)では村と森(キャッツキル山)のあいだを往復する人物を描いている。彼は村の生活になじめず、つねに森への傾斜を持っている。村の価値観しか持たない妻からはろくでなしと罵倒され、あげくの果ては、鉄砲を担ぎ、犬を連れて(つまりは森の住民であるハンターになって)、山へ出かける。けれども、森のなかではオランダ人の酒に酔いつぶれ、意義深い森の価値との出会いを実現しないままに村に舞い戻る。新しい文化形成のための生存形式の探求としては、失敗に終わっている。

 上に挙げた例は18〜19世紀の作品であり、そのなかで成功しているのはソーロウだけである。20世紀になってからはどうなったのか検討が必要だが、紙幅は尽きている。ヘミングウェイの「大きな、二つの心臓を持つ川」やフォークナーの「熊」には本稿の枠組みのなかでとらえることができる要素がある。また、ソーロウに親近感をいだいているゲーリー・スナイダーには『野生の実践』(1990)があり、自然との共生というエコロジーの考えを新たに加えて、アメリカ大陸での生存形態から人間の存在形態の探求へと発展している。今回は問題の発端を指摘するだけだが、稿をあらためて考察しなければならない。

            (関西福祉科学大学教授、前関西学院大学教授)