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文学の中のアメリカ生活誌(39)

 

Wall Street(ウォール街)1531年、ベルギーのアントワープにヨーロッパ初の株式取引所が生まれたけれども、イギリスの商人と銀行家は1620年から1700年の間にbroker(ワインの小売り商人、1622年の言葉)、securities(保証、1700年頃)などの語彙を金融に適用し、それぞれ仲替人、有価証券の意味で使いはじめていた。1773年になると、イギリス人は最初の株式取引所を開いた。これに比し、有価証券を商っていた植民時代のアメリカ商人と銀行家は、まだウォール街の特定の樹木の下に寄り集まって、歩道で取り引きをしていた。Wall Streetはニューヨーク市の金融業の中心地を指して、1830年代の半ばから一般に知られた言葉であったが、本来はインディアンの襲撃に備えて1653年に、オランダ移民たちの手で築かれた集落の防壁がその後、風雨にさらされ、朽ちて生まれた短い、狭い道のことだった。Thomas Jeffersonのような革命指導層は独立戦争時代のspeculators(相場師、戦争のにわか景気にわいていた頃に生まれた1778年の言葉)に対して不満を抱いていたので、投機しないように一般国民に促したが、当時のアメリカの財政はそれほど拡大していなかった。実際、外国に対する独立戦争時の負債ばかりでなく、各州が持っていた負債を合衆国政府が買い取って返済するという所謂戦時債務の借換を、財務長官Alexander Hamiltonが実施するまで、株式取引所は必要なかったのだ。

 1791年、条例によって第1次合衆国銀行が開設され、その資本金の富裕層向け株式の募集が契機となり、翌年5月17日、24名の商人と競売人によって、最初の正式な株式取引所がニューヨークに開らかれた。彼等は次のような取り決めをした。「毎日決まった時間にウォール街の大きな古いアメリカスズカケノキの下に集まって、株を売買する。また25%以下の手数料で他人に株を売却してはならない」と。彼等が初めに扱った商品は、国債と合衆国銀行、北アメリカ銀行、ニューヨーク銀行の株、そして保険会社の株であった。その1年後、彼等の取り引きの場所は戸外から屋内に、すなわちウォール街とウォーター街の北角のTontine Coffee Houseの2階の部屋に移った。1827年までには彼等とその後継者たちは12の銀行株と9つの海上火災会社の株を扱っていた。

 1871年までニューヨーク株式取引所はCall market(コール市場)、すなわち競り人が大声でアルファベット順に叫ぶ銘柄を、会員である仲替人が売りまたは買いの注文を出し、取引の結果はstock book (株式台帳、1835年の言葉)に記載するのが慣行だった。1830年から1880年までの50年の間に、相場師や悪しき商人は市場を撹乱させるあくどいやり口を考え出した。最も巧妙なやり方はinsider(インサイダー、1830年の言葉)になって、事前に商品価格や相場の変化についての情報を手にすることだった。もう一つは、買いを誘うために買いが行われているかのように見せかける、所謂wash sale(空売り、1840年)だった。当時金融界の有力者であったJay Gould(ウォール街のスカンクと呼ばれた人)とその相棒James Fiskは、この恥じ知らずの操作にたけた男だった。彼等は空売り連中を苦境に追い込もうとして、金の買い占めを行った。数日のうちに金価格を130から160にはね上がらせるのに成功したが、1869年9月24日(金)、それまでこの謀略に目をふさいでいた時のGrant大統領は、財務省に手持ちの400万ドル分の金を市場に売り出すよう命じたため、金価格はわずか15分たらずのうちに、133に暴落した。合衆国は史上もっとも深刻な恐慌に直面したのである。Black Friday(暗黒の金曜日、この年にできた言葉)にほかならなかった。Mark TwainのThe Gilded Age (1873 ) には、Wall Streetという言葉が、こんなふうに使われている。「鉄道事業は、ウォール街の投機のために続けられているにすぎないので、フィリップは手放そうと決心した」。

Whale(鯨)whaleという言葉は古代英語bweal(大きな魚)からきている。ヨーロッパの古代・中世の航海者たちは鯨を海で人間をおそう恐ろしい怪物と思い込んでいた。それが17世紀初期のヨーロッパでは一転し、恐怖の対象、未知なる存在とみなされていた鯨は資源として利用されるようになった。記録によると、すでにこの頃にはオランダ、その後イギリスの捕鯨船が大西洋を行きかっていた。アメリカではじめて捕鯨業を行ったのは、この地域の先住民であるインディアンであった。彼等はカヌーを使ってハクジラの一種であるネズミイルカを浅瀬に追い込み、石でつくった武器でいとめた。植民地時代の1640年には、ロングアイランドに住む移民たちによる捕鯨がはじまり、1700年代になると、マサチューセッツの頑迷な信者たちに追われたクエーカー教徒のナンタケット島(マサチューセッツ州南東岸沖にある島)は、鯨が最も多く捕獲される地域として知られ、植民地の内外からのwhale oil(鯨油、1435年の言葉)やwhale bone(鯨ひげ、17世紀の言葉)の注文によって繁栄するようになった。間もなく灯火、石鹸、潤滑油に用いられた鯨の油は、その島に因んでNantucket oil(ナンタケットの油)と呼ばれるようなり、14世紀からイギリスでbaleen (ラテン語ballaenaから)と呼ばれていた鯨ひげは、whale boneとなった。Lettrs from an American Farmer(1782)において、作家Crevecoeurはその頃のナンタケット島の様子を詳述している。多くの鯨を捕獲した時には3つの大きな波止場近くで活発な取引がおこなわれ、島は植民地の首都のような賑わいにつつまれる。住民は清潔を心がけて暮らしているが、いろいろな所で鼻につく臭いだけは、初めてこの町を訪れた私には「驚き」だった。これは「鯨油が原因で、どうすることもできない」。

 独立戦争後になると、Yankee ship(北部船)と呼ばれた船舶に乗ったニューイングランド出身のアメリカ人が大西洋で捕鯨活動を行うようになり、1818年までに、世界の捕獲量の80%を手中するにいたった。当時のマサチューセッツ州ニューベッドフォードは世界で最も重要な捕鯨船の寄港地であった。特筆すべきは、この頃の捕鯨は日常の食料としてより、非食用の商品(鯨の油と鯨ひげ)の獲得を目的としておこなわれたことだ。というのは、鯨の油はランプの燃料としてだけでなく、ろうそくの原料として利用され、弾力性ある鯨のひげからは女性の下着や衣装がつくられたからだ。当時の鯨の油は、作家 Melville が Moby Dick (1851)の中で描いて見せているように、捕鯨船ピークオッド号の乗組員たちが追い求めた値段の高い商品だった。ついでにしるすと、この作品におけるAhab船長が復讐の怨念を燃やし、追い続ける白鯨について、作者はその背後に「測り知れぬ悪意」を潜ませている巨大な「怪物の親玉」と書いている。

 捕鯨産業は1810年頃から発展を遂げ、1846年には銛を握った乗組員を載せた729籍のアメリカの捕鯨船が、大西洋、大平洋、あるいは、北極海に出て行った。しかし、この年を境として捕鯨業は急速に衰退していった。理由はカリフォルニア州で石油という安い鉱物が発見されたことである。間もなく、値段の高い鯨油は家々や店にとってランプ用の燃料源でなくなり、代わって石油が広く用いられるようになった。その結果、鯨油の価格は暴落してしまい、捕鯨業界は大きな打撃を受けてしまったのだ。 

                    (新井正一郎・天理大学国際文化学部教授)