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ロレンスとアメリカ─『アメリカ古典文学研究』を中心に─

鈴 木 俊 次   

 D. H. ロレンスは小説家としてだけではなく、詩人、文芸批評家としても一流の仕事をした多彩な芸術家でもあった。彼の文芸批評のうちでもっともまとまった、そして最大の業績は『アメリカ古典文学研究』(以下『研究』と略記する)である。ロレンスがアメリカに渡ったのは1922年のことであるが、『研究』の原稿そのものは既に1917年頃に書かれ、最終稿はアメリカのニューメキシコ滞在中の1923年に完成している。最終稿が完成するまでには7年の歳月が費やされているわけである。

 この『研究』についての評価の歴史を振り返ってみると、ロレンスの小説芸術についての批評史がそうであったように、一面ではその独創性を評価されつつも、その文体が 'hysterical' であるとか、論理的というより主観的過ぎると批判され、その真意が出版当初から十分に理解されているとは言い難かった。しかし、1940年代に入って、アメリカの第一級の文芸批評家エドモンド・ウイルソンが「この種の主題についてこれまでに書かれた数少ない第一級の本の一つ」と高く評価し、さらに1960年代にL. フィードラーがその著『アメリカ小説における愛と死』の中でこの『研究』を評価して以後、この『研究』に対する評価は定着したと言える。ここで興味ある一つの事実は、これらの高い評価を下した批評家・研究者の多くがアメリカ人であったことである。彼らはイギリス人の書いたアメリカ文学論であるが故に、みずからを省みて一層自己の問題として強く意識したのであろう。

 では、『研究』がなぜ注目されてきたのであろうか。一つはロレンス自身も述べていることだが、当時まだ歴史の浅かったアメリカ文学は、イギリス文学の一支流程度にしか考えられていなかった時代環境の中で、前世紀のアメリカ文学を、それもフェニモァ・クーパー、ハーマン・メルビルなど当時まだ評価の低かった作家を独自の視点から高く評価したその先見性にあろう。いま一つは、『研究』の視野の広さにあると思う。つまり、それは文学論でありつつ、アメリカをヨーロッパ文明のサイクルの中に関連づけて語った文化論、文明論にもなっているのだ。この点をアメリカ人のエドモンド・ウイルソンも高く評価している。

 さて、『研究』第一章の冒頭でロレンスは、アメリカ文学には「アメリカ大陸」に由来する固有の特質があることを指摘し、それをヨーロッパからこの新大陸にやってきたアメリカ人の屈折した心の奥底の意識,旧主ヨーロッパから「自由」でありたいと思いつつ、「従属心」も捨てられないというアンビバレンスから説明していく。こうしたアメリカ人の魂の奥に宿る「暗き不安」、「真の自由」を求めようとすればアメリカ人がどうしても見つけ出さねばならぬ「内奥の自我」に注目せよとロレンスは主張するのだ。

 アメリカはこれまでの所、ただ「主を排せよ」とか「人民の意志を称えよ」という「デモクラシー」の理念に捉えられてきた。この「デモクラシー」とは、ロレンスによれば、旧主ヨーロッパの支配を断ち切る「道具」でしかなかったという。この「デモクラシー」という「偽りの理念」にアメリカは捉えられてきたが、それを捨てて、その内奥に隠れた「アメリカの魂」、「内なる自己」に従え、アメリカ大陸に宿る「土着の精神 (ヤspirit of placeユ)」の「内なる声」をアメリカ古典文学の作家たちの中から聞き取れ、とロレンスは主張するのだ。

 『研究』の第二章からは作家論になる。勿論、第一章の主旨に従ってアメリカの作家たちの中に潜む本物の自我、その「内なる声」を探ろうとするのである。具体的には、アメリカ的常識人、アメリカンドリームの体現者ベンジャミン・フランクリpー、ホーソン、メルビルは各2章にわたって扱われている。この3人の小説家とロレンスの自由詩に多大な影響を与えたホイットマンを加えた4人をアメリカ古典文学の中心的作家とロレンスが見ていると考えてよい。これらの作家は現在でもアメリカ文学のカノンであり、ロレンスの批評眼の卓抜さに驚かされるのである。

 この『研究』全体を一貫している一つの流れは、白人アメリカの、表層的アメリカの「顔」である「デモクラシー」という理念、「個」を否定し、「平等化」「平均化」「理想化」に向かう理念に対する攻撃である。もう一つの流れは、そうした理念の下層に隠れた「暗い」「破壊的」な力を探ろうとするものである。ロレンスの暗示的で、時として晦渋な文章で書かれた内容をこのように単純化することには反論もあろうが、大筋としては間違ってはいないと思う。ここでは紙面の都合上個々の作家論について立ち入って説明することはしないが、一つだけ指摘しておきたいのはフランクリンに対してはアメリカの白人意識の表層を代弁するものとして徹底して風刺しているが、それ以外の作家に対するロレンスの態度はアンビバレントであるということだ。ロレンスはこれらアメリカ古典文学の作家たちが「理知」にとらわれ「理想化」に向かおうとする傾向を批判し、彼らの意識の下層にある別の自我、「内なる自我」によって発せられた「内なる声」に着目せよと主張し、その声を前述した作家たちの作品の中に求めているのだ。

 このような見方はロレンスの思想を説明するときによく言及される二元論的な認識の仕方と関わっている。ロレンス流にいえば、「知性」による認識と「血」(本能)による認識だ。ロレンスはナサニエル・ホーソン論の中で、アメリカでは「理知の意識」が「血の意識」を滅ぼしてしまい、「血の知性化」がなされてしまったと述べているが、これも上述した認識の仕方を示すものであろう。ただよく誤解されるように、ロレンスは「血」による認識だけを肯定しているわけではない。ディナ論の最後で述べているように、「知ることが無である」という認識に至るには、先ず「全てを知らねばならない」のだから。ただ問題は、現代人が「血」による認識を忘れ、「知ろう」とし過ぎたことだという。自然を、大地を、海を、「知りたい」とこれらの作家は願い過ぎた。しかし同時にこれらの作家の下層の意識がどこかで反逆し、「内なる声」を作品の中で響かせている。その声に耳を傾けるべきなのだ。ロレンスは『研究』の始めの方で言っている、「芸術家を信ずるな。物語(作品)を信ぜよ」と。あらゆるものの価値観が相対化され、閉塞感にあえぐポスト・モダンの時代にあって、ロレンスの「声」に今一度耳を傾けるのも意味あることであろう。                

(愛知学院大学教授)