Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(37)

Arbor Day and Bird Day(愛樹の日と鳥の日)arborは樹木を指すラテン語である。愛樹の日は新しい木を植え、大地の大切さを教えるための日である。提唱したのはニューヨーク生まれの新聞記者Julius Sterling Mortonであった。1853年、周囲にほとんど樹木がないネブラスカ州に移り住んだ彼は、そこで付近の開拓者たちが冬の猛吹雪から身を守ってくれる樹木を必要としていることを知った。この仕事に取り組み始めた彼はまもなく、樹木があれば土壌は吹き飛ばされることがないばかりか、住民は実や木陰を楽しむことができるのではないか、と考えた。彼は地元紙の編集人として活躍していたので、新聞を活用して人々に木の大切さを訴えてみることにした。

 彼の尽力でネブラスカ州議会は、1872年に4月10日を愛樹の日に指定した。最初の愛樹の日には100万本以上の苗木が植えられた。その16年後ネブラスカに植樹された本数は3億本以上になり、この州は Tree Planterユs State(植樹州)として知られるようになった。その後彼はG. Cleveland大統領によって農務長官に任命されると、国家的規模の植樹運動を展開した。今日では各州で愛樹の日が祝われている。ネブラスカは後に愛樹の日をMortonの誕生日の4月22日に変更したが、殆どの州は4月の第4金曜日に実施している。

 Mortonは農務長官時代に一通の手紙を受け取った。差し出し人はペンシルベニア州オイル市の学校長であった。その手紙には愛樹の日の導入に対する賛辞が見られたものの、「Bird Day(鳥の日)がないのは何故か」という手きびしい批判が記されていた。彼は鳥が樹木につく多くの害虫を捕食するだけでなく、木の種子を大地にばらまき、種を存続させるなど、植生に欠くことのできない生き物であることを深く認識していたので、すぐ国民に鳥の日を設ける必要性を訴え続けたのだ。かくして、1894年にオイル市は最初の鳥の日を定めた。この日には児童たちは鳥を保護するいろいろな方法を勉強した。鳥の日を全国に広めるのに大きな役割を果たしたのが、野鳥保護を念頭に創設されたAudubon Society(オーデユボン協会)である。このAudubon協会という名称は19世紀の有名な博物学誌的生態図を徹底して描いた画家John James Audubonの名に因むものだ。彼がアメリカ各地を歩きまわり、描きためたThe Birds of America (1831-1849) という鳥の水彩画集は、当時の作家Henry David Thoreauの自然観に強い影響を与えた。今日では多くの州がAudubonの誕生日の4月26日を鳥の日にしている。時には鳥の日はオーデユボンの日とも呼ばれる。州のなかには、愛樹の日と鳥の日を一緒に祝わっている所もある。ついでにしるすと、bird watching(野鳥観察)は1901年、bird watcher(野鳥観察者) は1905年に生まれた語だ。

 20世紀後半になると、Earth Day(大地の日)が制定された。このきっかけは1970年代の初めに米国議会がいくつかの環境保全法を可決したことだ。そのなかには、空気や水の中の有害物質の含有量を抑制し、規制した法案もあった。1970年4月22日に最初の全国的な大地の日が行われた。当日の大会で人々は政府が環境政策に強い関心を示していないことへの懸念を主張した。それ以降、アメリカ国民は州レベルでさまざまな自然保護と公害防止運動を推進し始めた。例えばウエストバージニアではデモ隊が裁判所の階段にごみを捨て、環境浄化に積極的でない政府指導者たちに抗議運動を行ったし、フロリダでは大学生が古ぼけた車を空気を汚染したという罪で裁判にかけた。ルイジアナの住民は1990年の大地の日に、1万本の木をミシシッピー川とミズーリー川が合流する土手に植えたという。

Peddler(行商人)作家Hawthorne の短編 Mr. Higinbothamユs Catastrophe (1832)の冒頭に次のような一節がある。「タバコ行商人の若者が、シェーカー植民地の執事との取り引きをまとめ、モリスタウンからサマン川のほとりのパーカーズ・フォールズ村へ行く途中であった」。雑貨一般を取り扱う行商人と呼ばれた小規模の商人─その大半はニューイングランド出身の若者だった─は、植民地時代からいた。彼等は、商品をfair(市)で仕入れ、重い商品は馬や小さな荷馬車を使い、軽い商品は自分で背負い、「ブリキ製品、帽子、ビースはいりませんか」と大声をはりあげて、田舎の家を一軒一軒訪ね回った。彼等は客の見つかりそうな所なら何処へでも出かけて行った。1721年に、ボストンの行商人がメイン州の奥地に住むSarah Goodwinとその父親に4分の3ヤードのキャラコと1.5ヤードのラシャを売ったという記録が残っている。行商人は、時々仕入品の宣伝のために地方新聞を持ってくることもあった。そこに載っている飾り文句につられて、村人のなかには、まだ使ったこともない商品をちゅうちょなく購入する者もいた。行商人のおかげで、開拓民や農家の主婦はわざわざ川を筏で下って町場や市へ行かなくても生活用品や地方の産物のほとんどを、手に入れることができた。だが、町の商店主たちは行商人を嫌った。というのは、彼等がいたために奥地の人々が町の店へ買いに来なくなったからだ。しかし、 行商人はそうでもしなければ存在しなかったような都市と農村との企業的なむすびつきを作ったことは確かだ。そして川沿いの商いに有利な場所で取り引きが活発になされているのを見てとると、機を見るに敏な一部の行商人は内陸部に定住する商人となった。

 都市が成長しはじめる1830年代になると、商品を売る行商人の声は、都市が発する人々を集めるサインとなった。この頃の行商人の多くは、アメリカに住んで間もない貧しい移民たちであった。ニューヨークを例にとると、アイルランド系の女性たちは野菜を大きなバスケットに入れ、通りから通りへ売り歩いた。イタリア人移民は果物や花といった品物を売っていた。ドイツ人の移民は小さな加工品を売るのが普通だった。彼等の伝統的な呼び声を聞くだけで、人々は外に出ていかなくても、どんな行商人がきているか分かった。さまざまな呼び声のなかでも最も大きな売り声は、生きのいい魚や新鮮な野菜や果物を売る商人たちの声だった。彼等の扱う商品の傷みやすさを考えれば、当然だ。

 1850年代の半ばまでには、ニューヨークの食料雑貨店はドイツ人移民がとりしきるようになったが、その大半は行商人から身を起こした人たちだった。なかでも John Fisk はその出世頭だろう。南北戦争中は巧妙な手で繊維製品を売る契約を政府と交わし、戦後はニューヨークに出て株で大儲けをすると、彼はすぐに金もうけ競争が性分に合っていることを知った。手のこんだ恥知らずの手段で、桁はずれの財力を手にした彼は、大きなダイヤモンドつきのフリルのついたシャツの上に、派手なスーツを着込み、こめかみのカールさせた髪をポマードでかためていたが、その容貌は昔、行商人として田舎を売り歩いていた頃と変わりなかった。

 1850年以降になると、ニューヨークの通りの呼び売りのなかには、ぼろを着た子供たちの姿が目につくようになった。street Arab(浮浪児)とかgypsy(ジプシー)と呼ばれた彼等は安定した家もなく、物売りや盗みをしながら通りをさまよっていた。公式の調査によれば、1852年のニューヨークのストリート・チルドレン数は1万人に達していた。明治の英文学者戸川秋骨は『欧米紀遊2万3千里』(明治41年)の中で、ニューヨークで見たリンゴ売り、栗売りと共にうるさくつきまとう夕刊売りの子供を記している。

               (新井正一郎)