Rediscovery

アメリカスを縦断する

 

 アメリカスと最初に出会った場所は、ユカタン半島のメリダだった。今からもう21年も前のことになる。当時私は、政府交換留学生としてユカタン州立大学に在籍していて、極めて平均的(?)な中産階級のメキシコ人家庭に下宿していた。暇さえあれば自転車で町を散策するのが常だったが、友人が野外劇場のある面白い公園があると教えてくれたので行ってみた。その名はパルケ・デ・ラス・アメリカス。つまりアメリカス公園。「アメリカス?」と、ふと自問してみた。正直言って、当時の私にはまだ「アメリカ」を複数で理解するという認識はなかったからだ。なぜ「アメリカ」ではなく、「アメリカス」なのか?

 当時のメリダの中でも、瀟洒で落ちついた雰囲気の地区にその公園があった。行ってみるとたくさんの小さな塔のモニュメントが建っている。そして、塔の一つ一つには南北アメリカの国々とカリブ諸国の名前が彫り込まれていた。そこで私は、はじめて理解することができた。「アメリカ」とは、ひとり米国に独占されるべきものではなく、南北アメリカの国々の一つ一つを指すのだということを。だからこそ、それらの国々を構成する地域の総称が「アメリカス」であり、米国はその全体の一つにしか過ぎない。

 それは、まさに私にとって、はじめての「アメリカス」体験だった。知識として理解したというよりも、肌で体感することができた感動を覚えたものである。私は人類学部で勉強することになっていたが、当時、大学では先生たちが長期のストをやっていて、ほとんど授業が行われないという状況だった。それをいい口実に、幾度かメキシコ中を旅行した。ユカタン半島はメキシコでも南の端。そこから足をのばして、カリフォルニア半島の最南端のカボ・サンルカスや、さらに北上して、米国との国境の町シウダ・フアレスにまで出かけていったこともある。その町では、せっかくここまで来たのだから少しは先進国の香りを味わおうと、二つの国を分かつリオ・グランデに架かる橋を徒歩で渡った。

 橋を渡って米国に入ったのはおそらく午前中だったと思う。シウダ・フアレスから、対岸の町テキサス州エル・パソに歩いて渡る人の数は、その逆よりもはるかに多かった。合法的にメキシコからアメリカに仕事に出かけている人たちが多かったのだろうか。橋の上からは、川を挟んでメキシコ側に1枚の金網が国境線に沿っているのが見え、また米国側には同じような金網が曳かれているのに加えて、さらに二重の金網とそのあいだに用水路らしき、幅2メートルほどの川が流れていた。明らかに、米国はメキシコからの不法侵入者を排除するための工夫をしているのだということが見て取れた。南北問題とはこのようなものだと一人で納得しながら、入管で入国手続きをしていたら、後ろ手に手錠をかけられた2人の男性がオフィスに連れられてきた。顔つきはメキシコ人らしく、不法侵入でつかまってしまったことが容易に理解できた。

 メキシコ北部への旅行は日本に帰国する直前のものだったが、そのとき、中南米の「失われた10年」のはじまりを宣言することになる1982年の経済危機が発生したのだった。留学の期間を通じて、1ドルはほぼ22〜23ペソで安定していたと思うが、いきなり中央銀行が通貨を40%も切り下げたものだから、旅行の直前にドルを交換した私としては大変損をしたという感覚になった。結局私も、メキシコに暮らすドル族の一人にすぎなかったことが、そこで露呈してしまったわけである。当時まだNAFTAも実現しておらず、メキシコの日常には米国との経済統合を指向するよりも、反帝国主義、反覇権主義といったムードがあった。それだけに、私にとってメキシコはマルクス主義的な感性を研ぎすますに格好の環境に思えた。多くの読者にはオーバーに聞こえるかもしれないが、当時の私にはそうした批判的精神を養うことが人間としてあるべき姿だと頭では考えていた。そうはいっても、通貨の切り下げの「事件」が図らずも私に自覚を促したように、実のところ、私は第三諸国で資本主義の旨みを味わう先進国からの留学生にすぎなかったのである。

 リオ・グランデを超え、エル・パソに入った。いろいろとそこでの発見と、それにまつわる私の思索をお伝えしたいのだが、紙幅の都合上、一つに絞ることにする。エル・パソで、お爺さんがメキシコ人だという一人の大学生と知り合いになった。彼女は川向こうに広がっているシウダ・フアレスには一度も行ったことがないし、行きたくもないという。彼女は、英語もさることながら、メキシコ人と変わらないスペイン語を話すバイリンガルである。彼女は、自分の出自であるメキシコを常に意識しながらも、時には視線を避けながら、いわゆるチカーノとして米国に暮らしているのだと感じられた・・・。

 いきなりだが、ここで話しはアメリカスを南下する。あれから20年を経た今、私はブラジルとの関わりが深くなっている。天理大学を卒業してから、日本語教師としてブラジルに渡り、ブラジルの日系社会の中にどっぷりと浸かりながら、「ニホンジン」アイデンティティを強固に持っている人々と長らくつき合ってきた。米国に住むチカーノとブラジルのニッケイの人々は、多文化・多民族社会の構成員としての共通性を持っていて、両者ともに「あなたは何人ですか?」の質問に、おそらく容易には答えることのできない人々だともいえる。

 さて、先日、文化庁の「海外の宗教事情にかんする調査」の一時調査を終えて、ブラジルから日本に帰国した。今回、日本からブラジルに向かうときもそうだったが、ロスの空港で、乗客は一旦米国への入国手続きを行い、機内預けの荷物をカートに積みなおし、空港内を移動して、再度、乗ってきた同じ飛行機に荷物を積み込み、出国手続きをして搭乗ロビーにたどり着いた。空港内を大きく一周してスタート地点に戻ったわけである。愚かにしか感じられないこうした作業を以前は強いられることはなかったが、これも昨年9月11日以降の米国政府によるテロ対策の一環として始まったことは間違いない。以前、トランジットの場合には、飛行機を降りて空港のロビーで2、3時間、時間つぶしをすれば、そのまま乗り込むことができた。その間、気楽にロビーのテレビを見ながら飲み物を飲んだり、洗面所で顔を洗ったりして、少しは飛行機の窮屈な思いから解放される時間があった。しかし、今回は、空港のロビーという、いわば治外法権的な空間の我々にも、米国が政治力を押しつけているような気がしてならなかった。

 空港内を歩きながら、これも一国の威信をかけてやっていることだろうからと、半ば諦め気分で一切のプロセスを受け入れようと思った。しかし、どうも空港で働いている人たちのことが気になってしかたがなかった。偶然だったが、日本への帰りの便はリオの大学で経済学の教鞭を執っている私の知り合いと一緒だったので、彼と早速その状況を経済学的・社会学的に分析してみた。彼は、おそらく我々が時間をかけて移動するこの一連の作業が、空港での雇用の機会を増やしているに違いなく、経済効果を上げているはずだと理解した。ところが私は彼ほど良心的には解釈できず、現況は雇用を増やさずに、従来の労働条件を悪化させていると直感した。機内荷物を預けるカウンターで働いていたブラジル人女性が、気さくに我々と話をしてくれたので、この一件について聞いてみた。すると、極めて残念なことだが、結局、私の予想が当たっていて、さらに深刻なことには、これまで待合いロビーで働いていた人たちが、ロビーの利用回数が減ったために、職を失い始めているというものだった。私の体験からいえることは、ロビーには多くのチカーノが働いていた。必ずしも彼らが低所得者だというわけではないが、米国資本主義はかくも無惨に経済的・社会的弱者を切り捨てるのかという悲しくも腹立たしい思いが、どしんと私の心の中に落ちてきた。飛行機に乗り込む直前、再度手荷物検査があって、チカーノの女性が検査をしてくれた。私は、彼女とのひとときの気楽なスペイン語の会話を楽しんでいたが、9月11日以降のことに話題を移すと、彼女はいきなり口をつぐんでしまった。その後、彼女からスペイン語が発せられることはなく、英語で、乗客とは話しをしてはいけないことになっているのだと私に伝えた。ロスの空港でのブラジル人とチカーノとの会話から感じられた温度差は、後で冷静に考えてみたのだが、それらの人びとと米国との地理的・経済的・社会的差異から生み出される、心理的距離の違いに起因しているように思える。

 20年前のアメリカスと昨今のアメリカスの状況は、現象的には違いもあれば、構造的にはなんら変わっていない部分を持っている。アメリカスを比較的自由に、しかも幅広く縦断できるようになった今、これからのアメリカスをしっかりと見据えていきたいと考えている。    

(山田政信)