Special to the Newsletter

米国同時多発テロとキューバ

                千 野 境 子

 キューバは1993年2月24日、革命以来初の直接投票による国会(人民権力全国会議)選挙を行った。国家評議会議長のフィデル・カストロもこの時、サンティアゴデクーバ市第7区の候補者として初めて国民の“審判”を受けた。

 それによってカストロ独裁の批判をかわせたわけではもちろんないが、投票が無事終了した同日深夜、サンティアゴデクーバの広場に立ったカストロ議長は「私はあまりにも長く走り続けてきた」と弱気とも取れる感慨をもらし、居合わせた私たち日本人を含む西側記者団の間には「ポスト・カストロ」をめぐるさまざまな憶測が一気に広がった。

 カストロ議長はまた「5年以内に政権の座を降りられたらいい」とも語り、猜疑心の強いジャーナリストたちを煙に巻いた。

 しかし事実は9年後の現在もカストロ政権は健在で、さしずめ「ポスト・カストロへの予感と期待」の長い時代が続いている。

 アフガニスタンのタリバン兵やテロ組織アルカーイダのメンバーのグアンタナモ米海軍基地移送に、私がまず思いだしたのはこの暑くて熱い一夜の光景である。なぜならサンティアゴデクーバは、グアンタナモ米海軍基地から110数キロほどの近さにあるのだ。

 そこはまた革命揺籃の地でもある。1953年7月26日、青年カストロはバティスタ政権転覆を企てモンカダ兵舎を襲撃。逮捕されはしたが、革命への狼煙となった。初の直接投票に先立つ91年10月、5年ぶりに開かれた第4回共産党大会もこの地が舞台に選ばれている。

 当時、冷戦の終結でソ連・東欧社会主義陣営が総崩れし、「社会主義か死か」のスローガンを町に氾濫させ、苦境にあったキューバ指導部にとって、サンティアゴデクーバは常に立ち帰る革命の原点とも言えた。

 実は昨年9月11日の米同時多発テロ事件発生の際にも、私は9年前のキューバ取材のことを思い浮かべた。取材を終え勤務地ニューヨークに戻るため途中立ち寄ったメキシコシティーで、ホテルにチェックインし部屋のテレビのスイッチを入れた途端に眼に飛び込んで来たのは、赤く燃える世界貿易センタービルだった。

 今回の世界貿易センター崩壊のニュースは滞在先のフロリダ州タンパで聞いた。ウサマ・ビンラーディンが首謀者と知った時、私はなんという執念深さよ!と恐れ入ったものだ。

 事件との邂逅ー。それは決して用意しようとして出来るものではない。だから偶然の一致と言えばそれまでなのだが、このように同時多発テロ事件は私にとって米国―キューバ関係という文脈で実に因縁めいている。

 帰国まで約1週間、テロのため足止めされたマイアミも、キューバと深く関わっている。第四回共産党大会の時、私はハバナならぬリトルハバナ(マイアミのキューバ人街)に滞在していた。キューバ政府は記者はもとより友党である外国の代表団さえ呼ばない決定を下し、秘密会となった党大会の取材ビザは降りなかった。キューバはまさに「革命以来最大の危機」(カストロ議長)を迎えていた。私は「ハバナが駄目ならリトルハバナで『瀬戸際のキューバ』を考える企画はどうかしら」と東京のデスクを騙して(?)マイアミの亡命キューバ人社会を取材したのだった。

 当時、キューバへの取材にはニューヨークからマイアミに飛び、そこから時刻表にはない特別便でハバナ入りするのが常だった。マイアミはラテンアメリカのゲートウェーという以上に、キューバへのゲートウェーだ。

 わずか160マイルほど隔てた距離の間に、天と地とほど違う世界があった。灯火管制を敷いたようなハバナの夜の暗さから一転、不夜城のようなマイアミに戻るたびに、同じ空の下、同じ人間が体制の違いゆえに強いられる生活苦の不合理と不条理に私は頭を抱えた。

 以上は文字通り、十年一昔の話しである。

 さて2001年のマイアミはスカイラインを一層高くしていた。アメリカの好況がフロリダに体現されていた。東京への空路再開まで時間はいやというほどあり、私はフロリダ観光を決め込み、知人の好意で毎日のようにパームビーチ、ボカラートン、キーウェストと各地に足を伸ばした。

 東部のユダヤ人富豪たちの所有するため息の出るような豪華な別荘、手入れされた町並み、エメラルド色の空と海、ハイジャック犯たちが操縦のレッスンに通ったであろう飛行学校、点在する自家用飛行機の駐機場・・・何もかもが豊かすぎる!半旗の星条旗だけがうなだれ、あとは呆れるほどの強くて恵まれたアメリカが広がっていた。

 週末に訪れたキーウェストでは、折から黒い革ジャンパー姿でハーレーダビッドソンに乗った男たちが大集結していた。そのいささか異様なムード。ああ、フロリダは全米一のゲイの町だっけ。私はナットクした。米国最南端の地に立った時10年前のように彼方のキューバに眼をこらした。当時も今もなにも見えないのはいうまでもないけれど。

 キューバは同時多発テロ事件では、グアンタナモ米海軍基地へのタリバン兵士らの収容に意外なほど協調姿勢を示している。先述のように米軍基地は革命の聖地サンティアゴデクーバと目と鼻の距離にあって、カストロ議長にとって気持ちのよいものではないはずだが、同議長は「アルカーイダが脱走したら逮捕に協力する」とまで言っている。

 タリバンの生みの親といわれるパキスタンのムシャラフ大統領がそうであったように、国家の存亡を考えれば、対米協調以外の選択肢がカストロ議長にあるはずもない。「悪の枢軸」などと名指しされたらお仕舞いだ。まして過去、テロリストのスポンサーのレッテルを貼られたこともあるキューバであれば、ここはなおさら慎重であらねばならない。

 今や観光がドル獲得の有力な手段となっているキューバは、テロによる観光客激減の打撃を被った。ニューヨークタイムズ紙によれば、そうした中で今年1月に、政治家やロビイスト、学生、ビジネスマンなどの米国人2千人がキューバを訪れたという。キューバ高官は米国のこうした動きを「いつの日か両国の公式な出来事が、いまグアンタナモで起きているような尊敬と協力で取り扱われることを希望する」と期待を寄せている。

 果たしてそれはキューバ側の淡い期待に終わるのだろうか。問題はここでもムシャラフ大統領同様、この協調からカストロ議長が果実を手にすることが出来るのか、あるいは今後、米国・キューバ関係に変化が訪れるかどうかにかかっている。

 私にはこうした協力姿勢の意味するところの分析も含めて、同時多発テロ事件以後のキューバへの世界の関心はいささか低すぎるように思われる。

 前年の大統領選挙で「21世紀は米州の世紀に」と、新政権の中南米政策をマイアミで発表したブッシュ大統領は就任以来、1年間で5回もフロリダ州を訪れ、テロ発生時も同州に滞在していた。そして周知のように弟は同州知事。クリントン前政権と異なる外交は何もアジア政策だけではない。

 そのフロリダからほんの先のキューバ。カストロ議長はグアンタナモ基地のタリバン兵士やアルカーイダをどんな思いで見つめているのであろうか。

(産経新聞論説委員兼編集委員)