Scenery      

文学の中のアメリカ生活誌(35)

Alligator and Beaver(アメリカワニとビーバー)北アメリカ大陸にやってきたイギリスからの初期の移民たちは、初めのうちそこで出会ったかなりの数の動物の種類を見分けられなかったようだ。例えば、alligator とcrocodileだ。これらの単語がアメリカで最初に記録されるのは1682年だけれども、彼等は同一文中で同じ動物をalligatorと記したり、crocodileと書いている。crocodiles(アフリカに住むワニ)はギリシャ語のkrokodelos(砂利の虫)からきたものだ。ギリシャ人はこの動物がナイル川の川べりで日に当たるのを好むことに気づき krokodilos (砂利の虫) と呼んだのである。crocodileを短縮してcroc.と書くようになるのは1884年になってからだ。アメリカ南部のワニを指すalligatorは、スペイン語のとかげを意味する el lagarto に由来した言葉である。1750年代に入ると、alligator pear(アボガド)、1821年にはalligator garという言い方が生まれた。1844年にはalligatorの短縮語である'gatorはすでにできていた。ミシシッピー川の運河船の船頭たちは自分の呼称にこの言葉を好んで用い、alligatorといえば、自分らがワニのようにタフで扱いにくいことを連想させた。まもなくこの言葉は、粗野な辺境人やインディアンの戦士のことを指すようになった。さらに後にはalligatorは、ニューオリンズではふんぞり返って歩くめかし屋、はで好みの人のことにもなり、1915年にはスイング音楽狂の意味で使われるようになった。1930年代にはやった言葉にalligatorとlaterと韻を踏んだ表現“See you later, alligator.”(じゃまたな、アリゲーター)がある。この表現は、もともとはミシシッピー川の運河船の船頭たちが別れの時に使ったものだが、1950年代には学生たちの間で別れ際によく使われた。

 beaverは古代英語beofer(褐色の動物)からきたものだ。広大な大西洋を越えたイギリス移民たちは、まもなく新大陸のうっそうたる森に唖然とするほどのビーバーがいることを知った。ビーバーは当時のイギリスではもう絶滅寸前だったので、彼等が武器やラム酒と交換にインディアンから買ったビーバーの毛皮は、イギリスやヨーロッパでは高い値で売れた。とりわけ美しい柔らかいつやのあるその毛皮を使った紳士用の山高帽は歓迎された。1700年代中頃のフレンチ・インディアン戦争(英仏間の植民地戦争)はビーバー捕獲地区(オハイオ川流域)の支配権をめぐって始まったものだ。1774年になると、beaveretteと呼ばれるビーバーに似せて染めたかわうそ、あざらし、あるいはじゃこうねずみの毛製の安い帽子が登場した。

 ビーバーはおいしさでもきわだっていたようだ。バージニア人のWilliam Byrdは、知事の招きでウイリアムズバーグを訪れたときの日記に「知事宅で催された晩餐会でビーバーを味わった」としるしている。植民地時代のニューイングランドではビーバーの毛皮は、穀物と同じく、いわば支払手段となっていた。地方政府の経費はこれ以外の物では支払うことができなかった。換言すれば、それはcountry-pay(現物貨幣)と呼ばれ、通貨の代用物として使われていた。後にペンシルベニアではbuck(しか皮)が貨幣として用いられた。次は作家Walt Whitman のLeaves of Grass (1855) から。「黒熊が木の根や蜂蜜を探し、ビーバーが櫂の尾を振って泥土をたたくところ...」。       Police(警察)世界で最初の警官隊は、1658年にオランダのニューアムステルダム植民地の総督Stuyvesantが創設した夜ランターンを持って歩き回るprowler(プラウラー)と呼ばれた8人の無報酬の夜警隊であった。彼等はランターンを持って、明け方まで通りを巡回した。火事の危険にさらされていた当時のニューアムステルダム植民地では、プラウラーたちは通りの犯罪より防火に注意を払っていた。彼等は火の手があがるのを目にすると、大きな木の警報器具をがらがら鳴らして消防隊に知らせるのが常であった。1644年イギリスに征服され、ニューアムステルダムがニューヨークとなると、日中はconstableと呼ばれた警官が、そして夜の9時から夜明けまでは親方職人が街の治安の仕事を担当した。見習いや職人たちと生活と仕事を共にしていた親方が治安の活動に係わったのは、18世紀末までは治安や風紀を乱す者には住み込みで働いている連中が多かったからだ。親方たちを支援すべく、ニューヨーク市議会は見習いのものぐさ、賭博、あるいは飲酒を禁じる条例を次々と制定した。1780年には事件を審理するpolice court(警察裁判所)が創設された。因にpoliceという語が登場するのは1780年、またpolicemanという名称は1830年代に生まれた。

 19世紀初期、職住一致という伝統的な社会が崩壊しかかると、ニューヨークの警官は志願者(退職者か社会の底辺部の人たちが多かった)の中から市長によって任命されたが、その人選は市長の都合のいいようになされた。なかには勇敢で良心的な警官もいたが、多くは犯罪を防止することよりは収賄による利益をあげることに熱心だったので、一般市民の警察に対する信頼感はほとんどなかった。当時の警官は手提げランプと消防夫に似た皮製のヘルメットといういでたちであったので、leatherheadとも呼ばれた。1842年に渡米したイギリスの作家C. Dickensはニューヨークに滞在中、2人の警官に護衛されてファイブ・ポインツ(貧困と悪徳が蔓延するどや街)を歩き回ったが、彼等は信頼に足る市民の公僕だっただろうか。1843年、ニューヨーク州議会は New York Municipal Police Act(ニューヨーク警察令)を可決し、警察改革に着手した。そして、1845年にはイギリスの政治家Robert Bobby Peel卿が再建したロンドン警察をモデルにしてpolice force(警察隊)を作った。新しい警官たちは公僕としての訓練をうけ、俸給を受け取った。だが、警察の質はほとんど変わらなかった。1857年、ニューヨーク市の腐敗ぶりに気づいたニューヨーク州議会は、市の管轄下の警官を解雇し、代わってニューヨーク州任命の監督官のもと、新しい警察制度を作ろうとした。ところが当時のWood市長は別個の警察隊を創設することを市議会に認めさせた。双方の間では犯人が一方の警察に逮捕されても、即座に他の警察によって釈放されてしまうほどの激しい対立がつづいた。1857年6月中旬、メトロポリタン警察の署長が市長の逮捕状を手渡そうとしたことがきっかけになり、市と州の2つの警察は市庁舎前で殴り合いとなった。Timeの記者はその様子をこう報じている。「無防備の頭にげんこつの雨が襲い、男たちは階段をころげ落ちた。飛び乗られ、たたきのめされたので命が失われるように思えた」。結果は州警備隊第7連隊の応援を得た州政府が勝ち、Wood市長は逮捕された。そしてこの年、ニューヨークに新しいメトロポリタン警察ができたのだ。銅製の星形バッジがついていた制服で身をつつんだ警官が見慣れた光景になるのもこの頃である。彼等の制服から警官に関する多くの言葉が生まれた。例えば、当時の作家Walt Whitmanはそのバッジから警官をstation house's shield(警察署のバッジたち)と呼んでいる。民間語源説ではcopper(巡査)、その短縮形cop(おまわり)もそのバッジに起因している。Theodore Dreiserの小説Sister Carrie(1900)に、このcopperを使った用例がある。

                   (新井正一郎)