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「移民パラダイム」を越えて

山 田 史 郎   

 

 1998年のAmerican Historical Association の年次大会において、移民史研究の現状を考えるパネル・ディスカッションで、パネリストのひとり、G. Sanchez は、従来のヨーロッパ系移民を対象としてきた移民史研究が、同化し成功したヨーロッパ人移民の事例を、他のマイノリティにも当てはまる国民形成のモデルとして定着させてしまったとする旨の問題提起を行った。かれはさらに、ヨーロッパ人移民のみを対象としてきた移民史の研究者が人種の中心的な意味を否定してきたことによって、70年代・80年代に台頭したアジア系アメリカ人やラティーノの研究に影響を及ぼす役割をみずから拒むことになった、と断定した。

 こうした批判は、移民史研究者の立場からすれば、的外れであると言わねばならないが、しかし次の二つの点で、ヨーロッパ系移民の歴史における問題点を突いている。第一に、最近まで、ヨーロッパ系移民を対象とする移民史研究者が、人種の観点を避けてきたこと。第二に、同化するヨーロッパ系移民をモデルにして国民統合を考える思考が、移民史研究者によってではないにしても、アメリカで保持されてきたこと。あるいは、国家形成・国民統合の過程で、都合のいいヨーロッパ系移民像が繰り返し創り上げられてきたこと。

 都合のいいヨーロッパ系移民像とは、貧困と戦争で疲弊したヨーロッパにおいては希望を見出せない向上意欲にあふれた人々が、自由と経済的機会にひかれて米国に渡り、努力と勤勉によって社会的経済的向上を成し遂げ、自らをアメリカに同化させ、愛国心を持つにいたった人びととして移民およびその子孫を捉える。アメリカは、“nation of immigrants”、つまり移民からなる国であるといわれるとき、そこで指し示される移民とは、こうして国民となった移民たちである。

 このような観点からアメリカの国民形成を物語る手法をさして、イタリア人移民史の研究者であるD. Gabaccia は、米国史の“immigrant paradigm”と呼び、この移民パラダイムが、自由と民主主義の発展という米国の国家的・国民的テーマを構築する主要要素として機能してきた、と言う。移民パラダイムの展開と、実際の研究の営為とを付き合わせることで、移民史研究の動向と課題を整理してみたい。

 独立により新しい共和国を立ち上げるに際して、自分たちが旧世界の住民とは違う「アメリカ人」―腐敗しておらず、自由で、高い倫理性と使命感を持つ国民―であることを自負する傾向が強まった。かれらは、そうしたアメリカ人の起源を、ヨーロッパからの移民に見出そうとした。フランクリンは『アメリカへ移住しようとする人々への情報』(1784年)のなかで、貧しくとも向上意欲のあるヨーロッパ人ならば、「アメリカでは広大で肥沃な土地が格安で手に入り、壮健で勤勉でさえあれば、容易に身を立てることができる」とし、その証拠に、ヨーロッパからの「多数の貧民も、2、3年のうちに、豊かな農民になった」と論じた。同様に、『アメリカ農夫の手紙』(1782年)のなかでクレヴクールも、ヨーロッパでは「貧困と飢餓と戦乱」で荒廃し、「いくら働いても飢えに苦しむ人たち、いつもひどい苦難と貧困のなかで生きてきた人たち」が、アメリカへ移住し、「古くからの偏見も慣習もすべて棄てて」、生まれ変わり、「ここで彼らは人間になった」と論じた。

 しかし実際の移民史研究によってあきらかにされた植民地時代の移民をみると、こうして創られた移民像の限界がわかる。17,18世紀の植民地時代に、ヨーロッパからおよそ50万人がイギリス領北米植民地に移住したが、この北米への移住は、近世ヨーロッパにおける移住のひとつの流れに過ぎず、北米は移住を志したヨーロッパ人にとっては、どちらかといえばマイナーな目的地のひとつにすぎなかった。また、移住者のすべてが、豊かで安寧な生活をアメリカで手に入れたわけではなかったことも、当然のことである。18世紀のイギリスからの移民の4分の1をしめた囚人=流刑囚はもとより、年季契約の奉公人も18世紀後半になると、農民や職人として自立することができない者が多く現れるようになる。

 19世紀後半に工業化が進展し、東欧・南欧からの一時的出稼ぎ型の移民が急増すると、ヨーロッパ人とはいえこうした非常に異質な人びとをアメリカ社会に編入することへの懐疑が生まれ、異質な移民の制限を求める動きが台頭した。その際に行われたのが、ヨーロッパ人移民を「旧移民」と「新移民」とに分類する手法であり、1911年の移民委員会報告などがその典型であろう。南方ヨーロッパ人の新移民が同化や地位向上の点で著しく劣ることを証明するために、アメリカ社会により適合した北方ヨーロッパ人の旧移民像が作り出された。北方ヨーロッパ人は、本来的に知能や感情において優れた人種的資質を保持し、渡米後も向上の意欲、個人主義、就労態度、教育への関心、衛生・保健への関心、公序良俗の尊重などにおいて優れているとされた。しかし、移民のモデルとして作り出された旧移民像は歴史に照らしてみると、内実に問題があった。D. Roedigerや N. Ignatiev の研究が明らかにしたように、19世紀中ごろ新参者として流入したドイツやアイルランドからのカトリック、特にアイルランド人移民は、異質な宗教と生活習慣、法律や秩序に関する異質な習俗などのために、厳しい偏見と排斥にさらされ、しばしば白人扱いされず、黒人や中国人との類似性が指摘された。

 東欧・南欧の移民とその2世たちは、1920年代の移民割り当て法以後40年間にわたり、同化能力の疑わしい集団としての規定に縛られつづける。ところが連邦政府による黒人投票権の保障を強化する公民権法が成立するのと同時期に、この差別的な移民制限法が改正されたことは、重要な意味を持つ。つまり、人種問題の解決のためのモデルとして、ヨーロッパ人移民、それも偏見と差別にさらされてきた東欧・南欧の移民を含めたヨーロッパ人移民像が、再び打ち立てられていくからである。劣等視され、底辺におかれたヨーロッパからの「新移民」でさえ、努力と勤勉によって向上し、同化し、愛国心を身に付けるまでになった。この考え方には、法律によって条件が整えられた限りは、黒人などの人種マイノリティも、ヨーロッパ人移民と同じ軌跡をたどるはずであるという意味が込められた。こうした移民のパラダイムは、1970年代、80年代の社会学者Nathan Glazer、90年代のArthur Schlesinger Jr.やDavid Hollingerにまで引き継がれる。

 これに対して、移民史研究が明らかにしたヨーロッパ系の姿は、人種マイノリティの同化にとってモデルとなるようなものではない。移民が持ち込んだヨーロッパの前近代的な農民文化は、労働の尊厳や自立をささえる労働者階級文化の基礎となり、工業化の規律や資本家の支配に対する抵抗の源となった。民族文化に依拠して、アメリカ化を拒否する移民の姿勢が強調された。また最近のホワイトネスに関する研究は、偏見や差別にさらされれば、さらされるほどヨーロッパ人移民が、黒人やときには東洋人移民との相違を強調し、職場や居住区で境界線を明確にし、暴力を用いてでも非白人の排斥に関与したことを白日の下にさらした。ヨーロッパ人移民の成功や同化や愛国心が、こうした黒人や東洋人を犠牲にしたうえでの、「白人性」の獲得によって達成されたとするなら、かれらがたどった軌跡が、非白人マイノリティにとっての範例となるべくもないことはもはや明瞭である。

 建国期から現在まで根強く受け継がれた移民パラダイムは、アメリカ国民の物語の主要なテーマを構成してきた。このことは、言い換えると、国民の物語の叙述に縛られるが故に、移民パラダイムが生き残ったといえる。この陥穽から逃れるためには、上に言及した移民史研究の成果に加えて、国民的なるものの枠から脱して移民を捉える姿勢―トランスナショナルな移民史研究の方向性―も必要になるだろう。  

(同志社大学教授、天理大学アメリカス学会評議員)