Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(34)

American Cheeze(アメリカ製チーズ)アメリカの13の植民地がイギリス本国との関係を断ち切るための独立戦争を起こすと、イギリスは経済規制を強化していった。植民地人はイギリスからの重要な蛋白資源であるチーズ、特にcheddar(チェダーチーズ、由来はチェダーという原産地名から)を口にすることができなくなった。しかし、すでにその頃にはニューイングランドの農家の女性たちは、母から娘へと、代々受け継がれてきた技術のお陰で、新世界風のチェダーチーズを作っていた。食べ物の面でもイギリスから独立できたことを示す意味で、まもなくこのチーズはAmerican cheese(アメリカ製のチーズ、1804年にできた言葉)と呼ばれた。アメリカ製のチーズの仕事場は台所のすみであったり、母屋から少し離れたところにあるcheese house(チーズ作りの家屋、1759年頃から農場でよく聞かれるようになったアメリカ産の言葉)であった。田舎の女性たちのなかには、何かの品物と交換しようと、村の雑貨屋に家で作ったチーズを持ち込む者もいた。1860年代に入ると、アメリカ製のチーズはアメリカの風景にすっかり溶け込み、だれもがそれを単にstore cheese あるいはfactory cheeseと呼ぶようになった。

 1845年、アイルランドを襲ったジャガイモの疫病の影響で、アメリカ(主としてウィスコンシンやミルウォーキーといった酪農州)に渡ってきた48ers(フォーテイ・エイターズ)と呼ばれたドイツ人は、アメリカ製のチーズづくりに大きな貢献をした。たとえば、有名なLinderkranz(リーデルクランツ・チーズ)はドイツ産のように聞こえるが、実際はニューヨーク州モンローのドイツ系アメリカ人 Emi Frey が1892年に作った生粋のアメリカ産のチーズだ。Linderkranzの名は1858年に結成されたlinderkranz(ドイツ語「歌の花輪」)というドイツ系アメリカ人の合唱団に因むものだ。考案者のFreyは試作品を食品販売店のオーナーであり、上記の合唱隊の一員でもあったAdolph Todeに送った。彼がそのチーズを仲間の合唱隊(彼等はリハーサルの後、かならずライ麦パンとチーズを食べ、ビールを飲む習わしがあった)に配ったところ、大好評だったのでリーデルクランツ・チーズという合唱団の名前で一般にも売りだされたのだ。

 品質によってはくさいものもあるので、cheeseは18世紀末頃まで「悪臭がある」、またcheesyは1896年頃には「安っぽい」の意味で用いられた。その一方でイギリスではcheeseという言葉は1818年頃まで「重要なもの」を指していた。その影響を受けてか、この用法は1830年代までに、アメリカにも広まった。この「大切なもの、重要人物」という意味でのcheeseという使い方はペルシア語あるいはヒンズスタン語chiz(もの)から由来したものだ。すなわち、chizの発音はインドにいたイギリス人にとっては英語のcheeseに似た音に聞こえた。その連想から彼等は「もの」をcheeseと呼ぶようになったのだ。1890年になるとbig cheese(大物)という言葉が生まれた。

 女の子がぐるっと回ってスカートをふくらませることをmake cheeseと言うのは1840年代からのものである。cheesecakeが(水着姿の女性の)「脚線美写真」を指すようになるのは1934年である。TIMEにその例が見られる。「タブロイド新聞は脚線美写真を追いかけている」。メCheese it!モ (気をつけろ!)は1870年代にはやった表現で、作家Mark Twainの愛用句でもあった。  

Bean(マメ)プリマスにたどりついた清教徒移民は、インディアンから生き延びるいろいろな知恵を教わった。その一つは栄養価を高めるために、トウモロコシとマメを同じ畑に植え、いっしょに収穫し、料理することであった。インディアンたちは畑にトウモロコシを植える時は必ずその畝の間にサヤインゲンを蒔き、そのつるがトウモロコシの太い茎にうまく巻きつくようにした。移民たちは初めこのやり方を取り入れていたが、そのうちbeanwood(マメの棒)を立てて豆のつるを誘引するようになった。このbeanwoodは1821年にbeanpole(マメのつるの支柱)、1823年にはbeanstick(マメの棒)と呼ばれるようになった。そして1836年になると、beanpoleは「のっぽ」という新しい意味を持つようになった。ところで、移民たちのテーブルをにぎわした食べ物にsuccotash(サコタッシュ、鍋底に熊の脂を並べ、その上にトウモロコシの粒と乾燥したマメを加えてゆっくり煮込んだもの)というマメの煮込み料理がある。これは彼等が旧世界から持ってきた料理でなく、インディアンから習い覚えた料理だ。

 ボストンの有名な食べ物といえばbaked beans(煮豆)だが、これももとをただせばインディアンの特製料理だ。ニューイングランドに入植した清教徒たちは、インディアンが煮込んだ豆を食べている姿を見ることができた。この料理は豆を鍋にはった水の中でふくらませた後、熊の脂とメープルシロップを加え、それを穴の中に敷きつめた熱く焼いた石の上でゆっくり煮込んだものだった。このインディアンの料理は宗教的な理由のために清教徒の女性たちの間にあっというまに広まった。もう少しいうと、ボストンでは日曜日は安息日、つまり礼拝と瞑想に捧げる日であることを法令によって定めていたので、主婦はこの日に料理することさえできなかった。そこで日曜日の食卓に温かい煮豆を出したいと思う主婦は土曜日に煮豆をつくり、これを近所のパン屋に渡すのが普通だった。そうすると、翌日ほどよく温められた煮豆が焼立てのパンといっしょに届けられるのだ。時代が下り安息日の戒律がそれほどきびしくなくなると、主婦は熊の脂の代わりに塩漬けの豚肉と糖蜜を混ぜた煮豆を日曜日の御馳走としてつくるようになったが、長い時間ゆっくり煮こむというこの料理の基本的な部分だけは変えなかった。この料理が 、Boston baked beans(ボストン煮豆)と呼ばれるようになるのは1850年代になってからだ。ついでにしるすと、ボストンの人々は1800年からbean eaters(豆を食べる人)の名で知られている。

 green beans(緑のマメ)は1759年までには、さやに筋がついていることからstring beans(糸ビーンズ)と、そして1770年までには、折るとぱちっと音がするところからsnap bean(スナップ・ビーンズ)と呼ばれたが、これが一般のアメリカ人の食卓に並ぶのは1870年以後である。というのは、これより前の時代では新鮮な野菜は健康に害があると思われていたからだ。筋のないサヤインゲンが開発された1894年以降は、green beansのほうが食欲をそそりそうに響くという理由から、食品加工業者がその表現を食品のラベルや広告で使ったので、string beansの呼び名は次第に使用されなくなった。beanfeast(宴会)は1806年にイギリスで生まれた言葉で地主が年に一度雇い人にふるまった祝宴のことであった。beaneryはマメ類を多くだす「安食堂」を指す1820年のアメリカ産の言葉である。以下はErskine CaldwellのCountry Full of Swedesの一文である。「マメや手製の茶色のパンを前の晩からあたためておかなかったので、わたしたちは冷えたままで食べなければならなかった」。

            (新井正一郎)