Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(33)

 

Liberty Tree(自由の木)1763年からわずか5年間にイギリス議会は、多くの植民地人の反英感情をかきたてた9つもの条例、所謂 War Arousing Acts(戦争誘発法)を次々と可決した。例えば1765年4月にイギリス議会で可決された Stamp Act(印紙条令)は、植民地の人々にあらゆる種類の法律上の文書はもとより、パンフレット、カレンダー、新聞にまで印紙配布人から印紙を買って、貼ることを強要した。ボストンはイギリス本国の植民地政策に対して最も尖鋭的に反発した土地だったため、この条例に反対する暴徒が多くいた。彼等の中の一人McIntoshは、本国から印紙がボストン港に届いた1765年8月のある日、書記官をやめて印紙配布人になったばかりの Andrew Oliver を自宅からエッセクス通りとオレンジ通りの交差点にあった大きな楡の木の下に無理やり連れだし、大勢の人々の前でその仕事をやめるよう迫ったのだ。1765年8月14日、この楡の樹は、正式に The Tree of Liberty(自由の木)と名づけられた。1765年9月に本国のGeorge Grenville内閣が倒れたニュースが伝わると、ボストン住民は楡の木の下で祝宴を張ったので、後そこはLiberty Hall(自由の会場、1768年)、楡の木は Liberty Elm(1768)とそしてその木が切られてしまうと、切り株はLiberty Stamp(自由の切り株)と呼ばれるようになった。次は Boston Rec. (1768) の中の一節。「自由の息子(アメリカの独立のために活躍した愛国団体)が全ての人々に依頼したのは(中略)火曜日に自由の木の下に集合してくれとということだ」。

 当時のボストンのオレンジ通りから半マイル離れたところにあった絞首台が、本国から任命された総督の権力を示すものだったのにたいして、自由の木は自分たちの政治的、社会的慣例を踏みにじる者を制する人民の力を表わすものだった。1765年8月14日と11月1日、印紙条例に憤慨したボストンの人々は、印紙配布人と総督の人形の首をボストン・コモン(公園)にある大きな楡の木につるし、「印紙配布人がつるされている光景はじつに愉快だ」と書かれた札をぶら下げた。他にも英国のシンパで悪評高い人々の人形がその樹でつるされた。印紙条令に対するボストン市民のこの抗議の仕方は、他の植民地にも広がった。アナポリス、ニューポート、フィラデルフィア、チャールストンといった遠く離れた町でも、人々はその条令に抗議する目的で、印紙配布人の人形を持って近くの自由の木の下に集まった。あらめて言うと、自由の木は集会場の目印だけでなく、人民が評判の悪い人の人形をつるし首にした裁判地だった。やがて他の町や村でもこれにならい、共有地などにある大きな木を「自由の木」と呼ぶようになった。例えばチャールストンでは、1768年10月、機械工たちは「自由の木」と定めた大きなかしの木の下に集まり、タウンゼント諸法を断固として拒んだマサチューセッツの92名のために乾杯した。ついでに記すと、独立戦争時、最高司令官George Washingtonはマサチューセッツ州ケンブリッジにはえていた大きな楡の木の下で Continental Army (大陸軍、 1775年の言葉)の指揮したといわれている。ペンシルベニア植民地の創設者William Pennがデラウェアのインディアンとの友好協定に署名調印したのも楡の木陰のあたりであった。

 似た言葉に Liberty Pole(自由の旗竿)がある。18世紀後半のアメリカの海港都市では、船乗りたちはイギリスの支配に対する反抗のあかしとして多くの自由の旗竿を古い船のマストで作った。最初の自由の旗竿は1765年に、ニューヨークの「自由の息子」が印紙条令を撤回においやった祝いのしるしとして共有地に立てたものだ。そのポールの辺りでは盛大な宴会も行われた。そして共有地にはいつももう4本の自由の旗竿が立っていた。英国支持者や英国兵がそれをよく切り倒したからだ。

 

Banana(バナナ)バナナの学名は Musa sapientum (賢人の果物)である。命名者は18世紀のスペインの植物学者Linnaensである。彼によれば、ローマの歴史家 Pliny (23-79 A.D.) の書物に「インドの賢人たちは木陰で休息し、その果物を食べた」という記述があったので、この名前を付けたという。bananaという語が初めて英語の仲間入りするのは17世紀であった。Linnaensはまたplantain(料理に用いる大型バナナ)に対してMusa paradisiaca (天国の果物)という名をつけた。というのも、当時の伝説によるとエデンの園の禁断の実はりんごでなく、バナナだったからだ。

 Columbusが大西洋を横断する長い航海に出るまで、バナナはまだ西半球になかった。バナナをカナリア諸島から新大陸まで運んでいった功労者は、スペイン人だった。1516年、ヒスパニョーラ島(西インド諸島の島、西半分はハイチ、東半分はドミニカ)に到着したスペイン人修道士 Thomas de Berlanga は、アフリカから連れてこられた多くの黒人奴隷の一番安い食料になるかもしれないと考え、その土地にバナナを植えたのだ。彼がパナマの司教になると、バナナも彼についてゆく。司祭Vasco de Quirogaはバナナをメキシコに最初に伝えた人と云われている。その後、この植物は中米、メキシコ、そしてフロリダなどに野火のように広まっていったので、後世の多くの人々はバナナをアメリカ原産の作物だと信じこむようになった。今では忘れられてしまったイギリスの最初の植民地ノウスカロライナのロアノウクに移住した人々もカリブ海諸島からその親木を運び植えた。熱帯地方ではないロアノウクでは育つはずがなかったのだけれど。

 1870年になるまで、中米産のバナナは長い輸送に耐えることができなかったため、北アメリカの市場に供給できなかった。しかし、西インド諸島のバナナは銀紙につつまれてニューヨークやフィラデルフィアやボストンへ向けて時々船積みされた。初めてニューヨークに紹介されたバナナは、1804年に2本マストの小さな帆船「レイナード」号がキューバから運んだ30本のバナナだった。腐らずに届いたものは、今の貨幣価値で1本1ドルという高値で売れた。が、前記のように、バナナは扱うにリスクが大きく、貿易商人にとって依然魅力的な商品でなかった。こうしたなか、1830年、「ハリエット・スミス」号のJohn Persall 船長は15,000本のバナナを積み込み、ニューヨーク港に向かった。彼は危険を承知でバナナを満載して遠距離輸送した最初の人として知られている。当時の作家James Fenimore Cooperは「ニューヨークの市場でバナナを見つけた」と記しているが、おそらくそれは John Persall 船長が運んだバナナのことだったろう。

 1870年代になると、大陸横断鉄道を根幹とする鉄道網の発展や冷凍車両の完成のおかげで、業者は腐りやすいバナナを良好な状態で成長する北米の都市に輸送することができた。その中心的役割を演じたのはユナイテッド・フルーツ社である。Lorenzo Baker とMinor C. Keithによって創設されたこの会社は、早くからバナナを全国に輸送する大規模な事業に乗り出した。1850年代には、北部の都市住民だけしか新鮮な果物や野菜を食べることができなかった。だが、1890年になると、ユナイテッド・フルーツ社がはりめぐらした全国的な販売網によって、アメリカ中の多くの家庭でバナナや他の西インド諸島からの果物(パイナップル、ココナツ)を口にすることが可能になった。以下は、HemingwayのFiesta (1926) からの引用。「あれは角というよりバナナだよ、と批評家は言った」。

         (新井正一郎)