Research

二つの世界を生きたメシーカ女性

―イサベル・モクテスマ(テクイチポ・イチカショチトル)の生涯―

 

 1997年、ある女性を主人公にした歴史小説がメキシコで公刊された(Carrillo de

Albornoz, Jose Miguel, Memorias de dona Isabel de Moctezuma, Mexico, Nueva Imagen, 1997)。好評だったのか、翌年には再版および続編も出されている(Ibid., Los hijos de Isabel de Moctezuma, Mexico, Nueva Imagen, 1998)。著者カリーリョ・デ・アルボルノスはスペインの作家で、その女性の遠い末裔にあたるという。『イサベル・デ・モクテスマの覚書』および『イサベル・デ・モクテスマの子供たち』と題されたこれらの歴史小説の中心人物イサベル・デ・モクテスマ(正確にはイサベル・モクテスマ)とは、どのような人物だったのだろうか。彼女に関係する歴史文書としては、近年、スペイン・セビーリャのインディアス古文書館やメキシコ市の国立公文書館に残された文書が活字にされている(Emma Perez-Rocha, Privilegios en lucha. La informacion de dona IsabelMoctezuma, Mexico, INAH, 1998; "Litigio sobre la propiedad de tierras de los pueblos de Azcapotzalco y Tacuba por parte de los descendientes de Isabel Moctezuma-Testamento deTecuichpo", en Boletin del Archivo General de la Nacion, 4a serie, Num. 5, 1995, pp. 23-224)。そこで、以下ではこれらの文書や従来知られている史料で、その生涯を通観してみたい。

 彼女が生まれたのは1509年である。父はモクテスマ・ショコヨトル(モクテスマ2世)、母はモクテスマの正妻テカルコだった。父モクテスマは1502年に死去したアウィツォトルの王位を継承し、メシーカ王となっていた。メキシコ盆地部の覇権を握っていたテパネカ人の都市アスカポツァルコをテスココと共闘して1428年に陥落させた後、メシーカ王家は急速にその勢力を拡大し、支配を固めていた。その一方で、賢王ネサワルコヨトルの死後(1472年)、同盟都市国家テスココの力にはかげりが見え始めていた。やが1516年にその息子ネサワルピリが死去すると、モクテスマは自分の甥のカカマを傀儡のテスココ王として即位させることになる。

 このように、強大な支配者であったモクテスマ王の長女として生を受けた彼女は、テクイチポ・イチカショチトル(Tecuichpo Ichcaxochitl)と名付けられた。この名はアステカの言葉(ナワトル語)で「王家の娘・綿花」を意味する。当時、貴族層の教育はカルメカクという学校でなされており、入学の年令は6〜9才頃だったことから、彼女も数年間この学校で貴族の一員としての厳しい教育を受けたものと思われる。広大な領土を支配する王の娘としての生活は長く続かなかった。彼女が生まれる17年前には未知のヨーロッパ人たちが既にカリブ海域に到達していた。1492年のコロンブスによる「新世界到達」である。そして、1519年、ヨーロッパ人はついに大陸へ達する。ベラクルスに上陸したコルテス率いるスペイン人の一行は、やがてメシコ=テノチティトラン入城を果たし、モクテスマを軟禁した。その後、メシーカ人の祭りを急襲したことに端を発する事件により、征服者一行はテノチティトランを追われる。後に「悲しき夜」と呼ばれるこの事件にテクイチポらも巻き込まれ、嫡出の男子として王位継承権を持っていた彼女の弟アシャヤカは命を落とした。テクイチポ自身はメシーカ人側に救出され、動乱で死去したモクテスマの後継者クィトラワクの妻になった。この婚姻はアシャヤカの死によって唯一生存しているモクテスマの正妻の子となったテクイチポをクィトラワクと結婚させることで、彼の即位を正当化するためだったとされる。だが、クィトラワクはヨーロッパ人がもたらした「目に見えない凶器」すなわち疫病によって死亡する。すぐさま新王クアゥテモクが選出され、テクイチポはわずか12才にして二人目の夫クアゥテモクの妻となった。

 1521年8月、ついにスペイン人征服者たちはテノチティトランを陥落させた。征服後、コルテスのイブエラス(現在のホンジュラス)遠征に同行したクァウテモクは、その遠征先で反乱を企てたという理由で他の要人たちともどもコルテスによって殺害された。コルテスが遠征から戻り、二人目の夫を失ったことを知らされたテクイチポ――洗礼を受けてイサベル・モクテスマと呼ばれるようになっていた――は1526年に三人目の夫と結婚する。初めてキリスト教式で執り行われた三度目の結婚の相手はアロンソ・デ・グラドというスペイン人征服者だった。この婚姻は征服者コルテスの取り計らいによるもので、コルテスの証言によれば、モクテスマは死の直前にイサベルを含めた3人の娘の面倒を見て欲しいと彼に懇願したということである。だが、実際のところ、モクテスマがこのような遺言を残したかどうかは不明で、政略的な理由からコルテスが自分自身の部下を王家の子孫である女性と結婚させたと考える方が自然かもしれない。コルテスにしてみれば、王家の継承者である(したがって先住民が反乱を起こす際の指導者役に担ぎ出されるかもしれない)イサベルを目の届く範囲においておくだけでなく、先住民の改宗化を進める上でも模範的キリスト教徒としてのイサベルは効果的な存在だったからである。この結婚と同時にコルテスは、イサベルにトラコパン(タクバ)のエンコミエンダを、結婚相手のグラドにはフエス・ビシタドールという官職を与えた。だが、グラドはわずか2年後に突然死去してしまう。

 19才のイサベルは3人目の夫を失った後、コルテスの庇護下で暮らすようになった。やがて、コルテスによって選ばれたスペイン人ペドロ・ガリェゴがイサベルの4人目の夫となるが、この時、彼女はコルテスの子を身ごもっていた。この長女はレオノール・コルテス・モクテスマと名付けられ、コルテスの腹心アルタミラノに引き取られた。その後、イサベルはガリェゴとの間に長男フアンをもうけたが、またも結婚生活は長くは続かず、2年でイサベルは4人目の夫に先立たれてしまう。1532年の春、イサベルは5人目で最後の夫フアン・カノと結婚した。カノはスペイン・アンダルシア地方の名家の出身であり、積極的にメシーカ王モクテスマの娘としての妻イサベルの権利を王室側に訴え続けた。イサベルはカノとの間に10年間で三男二女をもうけた。

 1550年、死を前にしたイサベルは遺言書を作成した。その中で、彼女は「同[メシコ]市の聖アウグスティヌス教会および修道院内で、私の夫フアン・カノが適当と判断した場所に」埋葬されるよう希望している。17世紀に、聖アウグスティヌス教会は3日間燃え続けるという激しい火災に遭ったため、イサベルの正確な埋葬場所は不明である。いずれにせよ、帝都テノチティトラン中心部の大神殿(現在のテンプロ・マヨール遺跡)から数ブロックに位置するこの教会の一角に、450年を経た現在も彼女は眠っている。

 終わりに、上述の遺言書で我々の目を引く記述をもうひとつ挙げておきたい。それは、カノと彼女が所有していた「インディオ男女の奴隷」を解放するようにという一節である。奇しくも同じ1550年からその翌年にかけて、スペインのバリャドリードではラス・カサスとセプルベダの論戦が交され、その争点の一つはインディオに「自然奴隷説」が適用できるか否かであった。遺言書のこの一節は、かつての臣下だった人々が征服後に置かれた過酷な隷属状態を目の当たりにした「王家の娘」イサベルによる、最後の異議申立てだったのかもしれない。

( 井上 幸孝=立命館大学・非常勤講師)