Special Lecture                                

大学教育を考える―アメリカでの経験をふまえて

                 

                有 馬 朗 人

 

 天理大学アメリカス学会は2001年度の前期講演会に参議院議員の有馬 朗人氏をお招きし、21世紀の大学教育について約二時間お話しいただきました。氏は米国で研究教育活動を続けられながら、東大総長、中央教育審議会会長、文部大臣をつとめられ、日本の高等教育のあり方についてつとに研鑽してこられました。現在の日本の教育水準全般が低いわけではないことを前提にされながら、なお問題点が多々あることを厳しく指摘されました。以下、大学教育の部分に絞って言及された点を要約いたしました。(文責・北詰)

*このところ、日本の大学生の知識水準、物事の理解度の低下が話題になっているが、私はそう思わない。日本人の教育水準は決して低くない。大学進学率が終戦直後約8%だったのが現在ではほぼ50%に達しているのだから、大学生の平均水準が下がるのは当然である。問題は、知識と記憶の教育に片寄りすぎていて、しっかりした基礎教育の上に立って、考える力を付け、個性を伸ばし、問題を解決する力が付いていないことにある。それを養うためには、ゆとりの教育、基礎を身につけるための反復訓練、教育に当たる側の一層の努力が必要である。それを具体的に説明してみよう。

*まず大学生の水準が低下した直接の原因は、大学が新入生を大勢確保しようとして入試科目を減らしたことにある。高校生のほぼ全員が大学に入ることを望んでいるときに、入試に必要な科目を減らしてしまったら、志願者がそれ以外の科目の勉強をしなくなるのは当然である。医学部の入試科目から生物学を抜いてしまったら、分からなくて当然だ。高校生の70%ができた2次方程式を、大学生の20%しかできなくなる現象が起こるのは、そのせいである。日本人の知識水準は低くない。足りないのは広い知識である。大学の側に是非お願いしたいのは、やさしい問題でいい、必要な受験科目を減らさないでほしい。

*大学を受験する18歳人口は、最高だった1992年には205万人いた。それが今年は151万人、2009年には120万人とほぼ半減すると推定されている。これにどう対処するかは大学にとって深刻な問題である。いささか乱暴な言い方だが、単純にいえば大学の数を半分にするか、定員を半分にせざるをえなくなる。しかしそのようなことをやれば、大学経営が成り立たなくなる。

*米国のように、できない学生はドロップアウト(落第、もしくは退学)させればいいと現実を知らない暴論をはく人がいる。私の調べた限り、ドロップアウトが可能なのは、フランスとドイツである。いずれの国も、入学金、授業料はほぼゼロであり、難しいことではない。でも日本で、たとえばわたしが総長をしていた東京大学でも、入学金と授業料をあわせると、たしか50万から60万円はかかる。ここではたとえば、三分の一の学生を成績不良を理由にやめさせるならば、たちまち父母たちが大学に押し寄せて「高い入学金と授業料を取って…」とクレームを付けてくるだろう。米国の大学は「入るのが易しくて卒業が難しい」といわれているが、ハーバード大学の学生も98%がきちんと卒業している。ドイツ、フランスの場合、ほとんど入学時にカネをとっていないのだから、退学になっても隣の大学に入ればいいのであって、クレームは付いてこない。

*第二次大戦後、占領軍が日本に持ち込んだ教育改革に大学での「リベラル・アーツ」(教養教育)を担当する教養部があった。私はそれに反対した。大衆教育は米国でこそ必要だが、日本では必要性がなかったからだ。その理由は、米国の場合、大学に入ってくる個々の学生の水準に大きな差があるため、当初一、二年教養教育をやり、学生の格差をなくすことが必要だからだ。高校教育の継続である。それに引き替え、日本では幸いなことに中学、高校の教育は全国どこでもほぼ同じである。沖縄と北海道を転学しても困ることはない。にもかかわらず、高校教育の連続を意味するリベラル・アーツをする必要はない。しかもこの採用時には、学部の先生と教養部の先生に様々な「差」を設けたから不満がつのった。だからこの制度には反対した。

*ところで、私は米国で徹底して鍛えられたが、教育は教える側も教わる側も大変なことである。とくに基礎部門の科目ではきつい。私の専門(物理学)の場合でいえば、力学がそれに当たる。週1回3時間、その科目のために3人の教員が競争でそれに当たった。1時間の授業のために3日かけたこともあり、最後には一切ノートなしで授業ができるようになった。毎時間宿題をだし、採点をし、翌週には学生に返す。もちろん非常に時間のかかる仕事なので、院生にティーチング・アシスタントとして手伝ってもらった。教わる側も厳しい。

*そして最後の授業。これは学生にとり楽しい時間である。教えてもらった教員を評価して点数を付けるアンケートを行う。授業について「十分な準備を行ったか」「時間通りに授業を行ったか」「休講はなかったか」「講義は明晰であったか」「講義の質は十分だったか」・・・。この時間には当の教官は立ち会えない。アンケートの結果は、チェアマン(学科主任)のところへいき、本人のところへ戻らない。このアンケートの一覧表は食堂に置かれてあり、誰でもみることができるようになっている。結果次第では、給料に影響してくる。

*戦後の高等教育で次によくなかったことは、ポリテクニーク(専門学校)を大幅につぶしてしまったことである。工業、商業、農業、語学等の専門学校を極端に減らした。そして4年制の総合大学を増やしたことが、戦後の高等技術者養成に大いに貢献したことを認めるのにやぶさかではないが、同時にものづくりに直接当たるもの、中堅技術者の養成が疎かになったことが残念である。ここでもう一度ポリテクニークを設立して中堅技術者の養成に当たってほしいと思う。

*その意味ではもう一度教養部が必要になっているのである。それは、当初に述べた教養部はいらなかったという意味とは違う。大学生の水準の低下を補うためには一般教養の復活は是非とも必要である。若干、欲張りかもしれないが、教養部教育と同時に、専門教育を徹底的に行わなければならない。その場合の教養部教育で一般教養を高める教育を行うに際しては、地域社会の要望を十分に取り入れ、独りよがりにならぬ生涯教育にしてほしい。

*現代は大学の教員が研究を主目的とする時代ではないと思う。50%が大学を目指す時代には、ドイツの教育者フンボルトが提唱した「大学の教員の主目的は研究でありその最新の成果を学生に教える」という考え方ではなく、教育者はこれまで以上に教育に徹するべきだと思う。もちろん教員にとって研究活動は必要であり、7年間に一回サバティカル・イヤーを設けたり、一年を4期にわけそのうちの1期を研究の期間にするような形のものは必要である。

*こと研究業績については、外部の客観的評価にたえることはできる。論文の数や論文の引用された数ははっきりでてくる。しかしその数だけで評価すべきではない。大学当局は個々の論文の数ではなく、内容の評価を把握しておかなければならない。

*大学の国際化(外国人教員の増加)も無視できない。米国の学者でノーベル賞を受賞するものが多いとしばしばいわれるが、あれはナチス・ドイツがユダヤ人学者を追放した1936年以降、かれらを積極的に受け入れたためだ。同じ意味で、10年前、ソ連が崩壊したとき、困窮していた優秀なロシア人学者を日本は引き取るべきだった。この時も大半は米国に行ってしまった。

*最後にもう一つ、これは主として文部科学省の管轄下にある大学の問題だが、優秀な教職員を集め大学をよくするため、事務局長に大幅な権限を与えることが是非必要だと考える。長時間、ご静聴有り難うございました。