Report on Brazil 

ようこそブラジルへ

−ブラジルでの在外研究を終えて-

 

ブラジル、サンパウロ大学人文地理学研究室での1年間の在外研究を終え、帰国後約1ヶ月半が過ぎた。帰国した3月の日本では桜の蕾みが膨らみはじめ、カーニバル・シーズン直後の真夏のブラジルからするとまだまだ肌寒い季節だった。名古屋空港に降りたってから夕刻の市街を走るバスの窓から外を眺めた。駅前のきらきらと輝くネオンとビルの谷間を歩くグレースーツ姿のサラリーマン、髪を染めピアスをつけた若者、厚底ブーツの若い女性、自転車に乗った主婦、制服姿の学生達が笑いながら信号を待っている姿や歩道を行き交う様子がみえた。そこは世界で最も治安が良いといわれる平和国家日本の空間があった。

その1年前の平成12年4月の早朝、筆者はサンパウロに到着した。そして、1年間の生活するためのアパートの準備、研究上の諸手続きなどを終えて、いよいよサンパウロでの気侭な(傍目からはそう見えるらしい)一人暮らしが始まろうとしていた。まずは、独身の学生時代からすればかなりの年限を経て再開する自炊の準備である。日系人街で日本米や食材、とりあえずのレトルト食品、独り暮らしには欠かせないアルコール類を購入して意気揚々とアパートに帰ってきた。さて、サンパウロ市内の知人たちにアパートの電話番号の報告をと受話器をとったが、音がしない。なんと、電話代未納という事で回線を切られていた。調べてみると電気代も自治会の経費も衛星放送の受信料の支払いも不動産税の支払いも危なかったらしい。それからメール通信ができるようにとプロバイダー契約をし、一応の生活環境が整うまでに10日以上の日程とかなりの経費を費やした。しかし、そんなアクシデントはその後しばらくしてから遭遇した事件に比べればまだイントロにすぎなかった。

筆者は、毎月の第2日曜日はバウルー市に所在する天理教ブラジル伝道庁への参拝を欠かさなかった。その参拝からの帰りのことである。参拝を終えた後の安堵感を胸に、バウルー市からサンパウロ市までのゆったりと時間が流れる牧場や農園、先進諸国に比べればまだまだ貧しい中にも確実に近代化の波が浸透する農村の景色を眺めながら車は順調にサンパウロ市街に入ってきた。この時、筆者の脳裏には学生時代に過ごしたブラジルの懐かしい思い出だけが巡り、久しぶりに呼吸するブラジルの空気によっていた。

車はやがてサンパウロ市の中心にあるパウリスタ大通りにさしかかり、片側4車線の1番左側の車線で赤信号待ちになった。交通量は多く、筆者の車は信号から3台目で、その後ろや横は継続する車でいっぱいになって身動き出来ない状態になっていた。

突然、真正面の車の窓に白人の学生らしき若者2名がやってきて何かを話しかけていた。筆者は学生のカンパ資金集めかなにかだろうなと思っていた。すると、一人の若者が鞄から38口径の銃を出して運転席にいる男性の眉間につきつけた。助手席には奥さんらしき人が座っていたが、あまりに突然の出来事に驚いてハンドバッグを逆さまにして中のものを全て出してから、若者に差し出していた。筆者はバックミラーで後を見たが、とても動けそうになかった。 筆者の回りの車も全てなんとかできないかとあがいていたが、誰もそこからは動けかった。若者はこちらの方をちらちら見ながら、しかし、かなり冷静に「仕事」をこなしていた。つまり、シロウトさんではなさそうだった。筆者はもし彼らがやってきたら抵抗出来ない事だけは知っていたので、覚悟をきめてズボンのポケットから財布を出していつでも持っていってもらえるように胸ポケットに入れ直した。銃社会ブラジルでは、彼らの前でハンドルから手を離す事は抵抗とみなされ、死に繋がるからである。

目的を果たした若者たちは、回りを気にしながら後に並ぶ筆者の方を見た。手がハンドルに置かれたままであるのを確認した彼らは信号が開くのと同時に雑踏の中に消えていった。筆者の目の前で起こったその

 

数秒間はまるで映画のワンシーンのように流れていった。そして、青に変わった信号を確認し、アクセルを踏む足が震えてるのに気がついたのはその信号からかなり走ってからであった。

翌日、指導教官に出会った筆者はその数日間の様子を全て話した。彼女はたった一言「Seja bem vindo ao Brasil」(ようこそブラジルへ)と笑顔で告げられた。それは筆者が学生時代を過ごした20年前のブラジル、また院生だった頃のブラジルとは明らかに違ったブラジルにやってきた現実を知らしめるに充分な一言だった。日々の生活の中で忘れかけていた「万物は流転する」の意味を再確認させられた瞬間でもあった。

さて近年、ブラジルといえば一般的に貧富の差が激しい国、経済的に大変な国といったイメージが強いように思われる。また、一般的に社会的悪徳、犯罪といったマイナーなイメージは貧困層の存在と結び付けられやすいようにも思われる。確かに、ここ数年のブラジルの大都市周辺での犯罪率はおびただしく増加している。統計によれば1時間におけるブラジルでの殺人の発生率は4.6人、つまり1日に110人前後の人が殺されている計算になるといわれている。

しかし、本当にブラジルは経済的に貧しい国なのだろうか、またブラジルの犯罪率は貧困層の増加と密接な関係があるのだろうか。筆者は、一概にそうとは思えない。例えば、道路を走る車の種類は10年前からみればかなりの変化がみられるように思える。あの当時はまだ、錆びた車体にドアが外れたままで後部座席だけしかないタクシーなんかがパウリスタ大通りを走っていたように記憶する。それが今ではワーゲンやGM社の高級タクシーなんかが闊歩している。ブラジル国産車の2〜3倍前後以上の値段の輸入車に乗るサラリーマンやマダム、学生なんかも数多くみかけるようになった。

2001年4月4日のVEJA誌によれば、2000年の確定申告者のうち親から財産を譲渡されていない人物で、年間所得が約5千万円以上の人は105,931名で前々年度から比較すると30%も増え、5億円以上の人は3,972名で伸び率は17%であると発表されていた。ただし、不正申告者の数はこの3倍はあるだろうとも書かれていた。

つまり、お金持ちの数は確実に増えているという事である。外貨の大量流入などの情報は別としても、これはブラジルにおける一部の層の生活水準が先進国なみになってきている事実を示すものとして興味深い。しかし、その一方で同誌の5月2日版によれば、犯罪率についても昨年のサンパウロ市での誘拐事件のうち1,800件はこれら中産階級をターゲットにしたものであると述べている。つまり犯罪がその場の財布のお金だけを目当てにした単純なものではなく組織的なものに変化してきている事実を示しているのである。計画的な犯罪の発生は、非識字者の多い貧困層が起因しているとは考えられにくいように思える。つまり、犯罪イコール貧困の発想はもはや何の意味をもなさないという事になるのである。

日本でも昨今、今まで考えられなかったような殺人事件や犯罪がマスコミをにぎわしているが、開発途上と呼ばれる国々でも所得分配率とか経済格差とかだけではこれらの現象の本質にたどり着けなくなってきているように思われる。

さて、「ようこそブラジルへ」という暖かい?指導教官の言葉を胸に1年間の研究を無事に終えた筆者ではあったが、その1年は大学とアパートの往復たまに買い物といったもので臆病な筆者には夜間の外出は単独ではとても出来なかった。だからといって、サンパウロがとんでもない無法地帯なのかというとそうでもない。たまにお客さんが来た時に食事やお酒を飲みにいったレストランやバーでは1度も危険なめには会わなかったし、早朝にはジョッギングを楽しむ人々が大通りを行き交い、休日の公園では数万人という人々が芝生の上で様々な休息を楽しんでいた。夜間のレストランやバーは美しく着飾った老若男女で常に満杯であり、サンバやボサノバ、今はやりのファ(8ページからの続き)

ンク音楽にあわせて踊る以前と変わらぬブラジルがあった。誰もが常に危険と背中合わせであるとは全く意識せず、ケ・セラセラ(なるようになるものならば、なるようになる)のブラジル人気質があった。

つまり、筆者の勝手な思い込みかもしれないが、彼らにとってみればそれらの状況も、日本などと比べると犯罪に出くわす確率が幾段か高いだけであり、またテレビで犯罪に出くわした時のマニュアル的な番組が普通の番組同様に組まれているだけであり、つまり、ロシアン・ルーレットとマージャンの振り込みの確率程度?の違いはあれ、危険との遭遇は時の運であると考えているような気がするのである。

さて、性格的に臆病で気の小さい筆者は、帰国数日前にサンパウロ州の全ての留置所で一斉に起こったクーデター、また少年院でも起こったマニフェストにはかなりの恐怖感におそわれ、アパートの上を飛び交う警察やマスコミ各社のヘリコプターの音に、ただただ1日でも早く日本への帰国を夢みていた事実も加筆しておきたい。

(矢持 善和)