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英語教育にも複眼思考を

                 

                       末 延 岑 生

1.回想

「ギンミー・チューインガム」これは私が5歳のとき初めて学んだ外国語である。これを唱えると進駐軍がチューインガムとピーナッツを放り投げてくれた。こうして私は生活の中で、ほんの少しの、だが、役に立つ英語を学んだ。しかし、中学・高校ではカチカチの英文法と英米的発音に反抗しっぱなしだった。でも、先生になりたかったので、大学は“英文”の学科をえらんだ。そのつもりが、入ってみると“英文学”の科だった。たまらなくなって、大学院は教育学を専攻した。「教育心理学」で学んだのはスキナーの新行動主義。「教育哲学」ではルソー、ペスタロッチ、フレーベル、ロックやコメニウス、中でも言語習得、生得論など言語教育の基本問題に興味がわきはじめた。

そして晴れて念願の高校教員になった。当時の日本の英語教育は、大英帝国を見捨てて米国一辺倒に走っており、不思議なことに、英米語学者たちが、遠くアテネの時代からの論争の的である人間の“生得的言語能力”を、さもはじめて“発明”したかのように騒ぎたてていた。生得か習得か、natureかnurtureかといった次元は、まさか言語だけの問題ではないし、第一、どちらか一方だけが正しいというような、そんな単純な問題では決してない。

あまりの無謀さに、私は「打ち出の小槌も振らなきゃだめ」とあちこちの学会で声を張上げたが、焼け石に水だった。フィールドワークに命を賭けた構造言語学、習慣形成理論をもとにLLで頑張っていた人達はもとより、スキナーさえ“人間以下”だと、こてんぱんにこき下ろされ、「人間は生得的に言語を所有しているから、わざわざ教えなくてもいい」と勘違いしている人が多かった。

さて、私は1966年の夏、小学校のときからの夢だった世界一周旅行に出た。最初に渡った米国では自分の英語の通じなさを痛感した。その後ヨーロッパ、中近東、インド、東南アジアを巡って、世界には学校英語ではまったく耳にしたことがなかったいろいろな英語があることがはじめてわかった。チョムスキアンならすぐにアステリスク(非文につける*印)をつけるような英語ばかりだった。中でも面白いことに、英米圏から離れれば離れるほど、そしてアジアに近づくほど、そんな英語が十分通じ、実に理解しやすいということを体感した。世界には「世界英語」があること、日本にも「ニホン英語」という立派な英語があるということ、誰から何を言われようともこの「ニホン英語」のよさをいち早く体験したという自信、結局これが私のライフ・ワークになった。

 

2.Englishesの特徴

それから15年がすぎた。1980年ごろから「世界英語」を宣言したEnglishesということばが生まれた。今や世界では3億人たらずの使用者を持つ「英米語」に対して、ヨーロッパ英語、アジア英語、アフリカ英語などの「世界英語」は20億人以上が使う。その特徴は、一貫してやさしい語彙と文法構造。発音は何よりも母語のアイデンティティを示す。おおらかで自由奔放。附加疑問はno?やright?ですむ。不思議なことに、ほんの2-3時間ほどである程度の特徴が理解でき、心理的にもお互いが下手同士という気持ちが働き、安心する。

アジア英語にはアジア独特の礼節を重んじる語法があり、古くからの尊敬丁寧謙譲の文化がそっくりそのまま英語にも反映している。造語に長け、時には古く堅苦しい単語を使うといったように、それぞれのお国柄が表れている。たとえば、インド英語には長い植民地支配、中でも英語という言語自体からの脱却意欲の痕跡が見られる。彼らは英国にコロナイズされたが、英語をコロナイズしたといわれる。フィリピン英語は、タガログ訛りでスペイン語の影響をうけている。/f/の音がだせないかわりに/p/音をつかうが、これは韓国英語も同じである。シンガポール英語については、社会言語学者 Catherine Limは、「英語は現地の価値体系と無関係であるだけでなく、英米の文化を学ぶのは有害なことさえある」と指摘している。インドネシア英語は、国立国語開発センターが、たとえば、communicationをcommunicasiというように続々と人文・科学技術のための専門用語を造語して、母語に正式にとり入れる。このエネルギー。開発途上国として、英語の力は大きい。その英語を輸入するのはまさに無料。したたかである。中国英語も自国寄りに英語が作られ、英語のいいところを自国語にとり入れるしたたかさがある。中国の学生達は、英米の教師達の方言英語にブーイングをいれるくらいに自尊心が高い。

3.展望

旧約聖書の冒頭には、「はじめにことばありき。」とある。すべての事物は、人間も含め、神のゆるぎなきことばから生まれたという。だから、神が人間のことばを支配していた。ところが、周知のように人間は神にそむいてバベルの塔を建てた。神は怒ってことばをバラバラにした。この事件によって世界には多くの言語が生まれた。これは何を象徴しているかというと、それ以来、人の言葉はその人の心を表すようになったということ、つまり、人は複眼思考に目覚めたのだと私は思う。単一言語思考から複数言語思考型人間になったのだ。同じように、もともと英語はひとつだったであろう。しかし、いまや英語は世界中に広まった。100以上もあるさまざまな英語のうち、いまや「英米語」はそのひとつに過ぎなくなった。

さて、島国日本では“複眼的思考”を持つのは本当に難しい。日本人は英米語を崇拝するあまり、英米人の英語が理解できないのは自分の責任だと錯覚するが、「英米語」は英米人同志の方言であって、かれらはむしろ国際的な英語を身につけつつあるという時代だ。ところが、日本の英語教育者達はそれを、まるで神から受け賜ったことばのように、畏れ多くも畏くも大切にしてきた。いまだに、英語は「英米語」一つと確信し、学生たちが英語の一字一句ちょっとでも英米語から外れると、厳しい罰点を容赦なく科す。「おまえの発音を聞いていたら俺の耳が腐る。」と平気で学生を罵る米国帰りの教師。いまだに重箱の底をつつくような愚問だらけの入試問題。英語のできない人間は無能力者呼ばわりされる。そして文部科学省もいまだに「正しい英語」を強調する。

学生達の英語のエラーを調べてみると、現場での教授状況がつぶさに窺い知れる。意味に関係のないような冠詞をさえ怖がり、単複数形に神経をとがらせ、あげくはHe wents to the Tokyo.を生む。こうしていまだに3000万人の若者達の心を蝕んでいる。現代の日本の英語教育は、言語教育の暗黒時代として長く教育の歴史に刻み込まれるだろう。

確かに日本人の“英米語能力”は低い。しかし、日本人は眠れる獅子であり、「ニホン英語」を持って立ちあがれば世界に轟くというのが筆者の感想である。筆者の調査では、平均的大学生の「ニホン英語」は、自分の言いたいことの60%くらいしは表現することができ、その80%が英語圏の人たちに理解されていることが分かっている。一日も早く「ニホン英語」の門戸を開き、この能力をなんとか英語教育の中にプラス思考的に持って行きたいものである。

(神戸商科大学教授)