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文学の中のアメリカ生活誌(30)

                                        Ambulance and Ambulance Chaser(救急車と悪徳弁護士)ambulanceはフランス語hopital ambulant(移動病院)からきた語で、英語には1819年に入った。この言葉は初めは陸軍の移動式野戦病院を指していた。クレミア戦争(1854-1856)の間、イギリス人は移動野戦病院でなく、病人や負傷兵を野戦病院へ運ぶ幌がかかった荷馬車をambulanceと呼びはじめた。じきにその語は、病人や負傷者を急送する運搬車を表わす一般用語となった。ついでにしるすと、第一次世界大戦中には、合衆国軍は傷病兵運搬車(救急車)を meat wagon(肉輸送車)という聞くだけでぞっとするような新語で表現した。作家Hemingwayは若い頃、この救急車の運転手としてイタリア戦線に参加したのだった。

 アメリカではクレミア戦争後しばらくの間、すなわち1850年代から1900年初期までは prairie schooner (幌馬車、初出は1841年)や今のキャンピングカーの原型であるDougberty wagon(ダッグバーテイ・ワゴン、1901年)をはじめ馬またはラバの引く大型荷馬車にはどれもみなambulanceという言葉が用いられた。こうしたなか、Whitmanは当時のイギリスで通用していた傷病兵運搬車という意味でこの言葉を使った最初の作家である。彼が南北戦争中、看護兵として野戦病院で働きながらその光景をしるしたノートブックには次の一文がある。「坐ってこの文を書いていると、傷病兵運搬車として使われている30台ほどの、大きな4頭だての馬車が負傷兵をぎっしり詰め込んで、(中略)カーバー病院やマウント・プレゼント病院へ行くのが見える」。

 傷病兵運搬車が生まれてから40年ほど経つと、救急車のあとを追い、その車の交通事故を商売の種にする取るに足らない弁護士が無数に出現した。彼等はまもなくambulance chaser(悪徳弁護士、1897年の言葉)と呼ばれるようになった。Emanuel H. Lavine はThe Third Degree(1930)でこの語を使っている。「ポリ公のなかには悪徳弁護士から. . . 収益をとる者がいる」。弁護士をこういった軽蔑的な名で呼ぶのはなにも新しいことでない。1843年から強欲な弁護士はshyster(くそ野郎を意味するドイツ語shitから)と呼ばれたし、1857年には口先のうまい刑事専門の弁護士を指すmouthpieceという呼び名が生まれた。弁護士についての面白い言い方にPhiladelphia lawyer(申し立て人の主張の弱点をかぎつけ、且つ法律の専門的事項に精通しているすご腕の弁護士、1788年の言葉)がある。その由来は、植民地時代のアメリカではフィラデルフィアの弁護士がことごとく有能であったことからきていると云われる。最初にこの栄誉を得たのは、1735年にドイツ生まれの被告人John Peter Zengerをイギリス政府から守ったフィラデルフィアの弁護士Andrew Hamiltonである。Zengerは自分が編集する反体制派の週間新聞New York Weekly Journalに時のイギリス国王と総督の政治を批判する文を書いたとして、名誉毀損罪に問われ、投獄を言い渡された。当初、地元ニューヨークの2人の弁護人が彼の弁護に立つことになっていたが、イギリスびいきの裁判官は彼等を被告側の弁護からはずしてしまったので、Hamiltonが彼の弁護人としてその裁判に参加するようになった。彼は陪審員たちの前でZengerの記載文は事実どおりであっても、イギリス国王を誹謀したものでないと熱弁をふるい、被告の無罪を勝ち取ったのだ。この裁判は「アメリカの報道の自由の芽生え」と呼ばれている。     

 

Basketball (バスケットボール)バスケットはマサチューセッツ州スプリングフィールドのY.M.C.A.トレイニング・スクールに勤務していたカナダ人James Naismithが考案したアメリカ生まれのスポーツである。当時のY.M.C.A.の生徒たちは行進と美容体操が主な授業内容の体育にうんざりしていた。彼等の不満をなんとかしなくてはならないと思った運動部長は、勤めはじめたばかりのNaismithに生徒たちが体育館でやれる体がぶつからず、軽いボールを等しくボールを扱える競技を考案するよう指示した。かくして新しい室内競技が誕生した。当初、彼は体育館の両側にくぎでとめた箱にボールをシュートして得点を競わせようと考えた。だが、体育館の物置きには箱が見つからなかったので、peach basket(桃をいれる籠)で間に合わせボールはサッカー用のボールを使うことにした。余談だが、もしこの時に箱があったならば、この競技はbox ballの名で知られたかもしれない。1891年12月に、Y. M. C. A. の男子生徒たちは1チーム9人に分かれて対戦したが、試合は1対0という点の取り合いとはほど遠い結果だった。その競技を basket ball と表記してはじめて紹介したのは1892年にY. M. C. A. が発行した雑誌Triangle(「トライアングル」)であった。1902年にはその複合語 basket ball はbasket-ballとハイフォンを入れて記されることが多かった。それがbasketballという単一語にしてつづられるようになるのは1912年になってからだ。

 Y. M. C. A. の生徒たちは1891年のクリスマス休暇を利用して、この新しい競技を広めたおかげで、ほどなくNaismithは各地のY. M. C. A. からゲームのルールに関する数多くの問い合わせを受けた。こうしてバスケットボール―当初は the Y. M. C. A. game (Y. M. C. A. の試合)と呼ばれることもあった―は1893年になると急速にアメリカに広がっていった。1891年の頃にはbasket-ballは「バスケットボールの試合」のことで、今のような「バスケットボール用のボール」を意味しなかった。1894年になると、マサチューセッツ州フォールズの自転車製造会社によってその競技用のボールが開発され、それまでのサッカーボールにとってかわった。新しいボールはbasket ballと名づけられた。Naismithが考えた競技のルールは現在のものとはかなり違っていた。例えば1チームが連続3回反則行為をすると、相手チームに得点が与えられた。ゴールの籠はまもなくネットに取りかえられたが、1912年になるまで、まだその底に穴が開いていなかった。したがって、それまでは得点のたびに、レフェリーがボールを長い棒で突ついて網から出していた。

 Y. M. C. A. トレイニング・スクールの卒業生とその友人らがバスケッボールをジュネーブ大学やアイオア大学に紹介したことで、1892年に各大学内でバスケットがはじまった。公式には認められていないが、最初の大学対抗バスケット試合は1895年のスタンフォード大学対カリフォルニア大学女子チームの試合だ。Y.M.C.A.を核にできた素人のチームの多くは、やがてプロのチームになる。最初の職業バスケットチームは1898年に結成されたニュージャージー州のトレントンで、1898年には最初のバスケットリーグ、つまり ニューイングランド・リーグとナショナル・バスケット・リーグができた。John Updikeの Rabbit, Run (1960)は、高校生の頃バスケットボールの花形選手であったHarryを主人公にした小説だ。このなかに帰宅したHarryが妻と次のような会話を交す場面がある。「あなたがもう帰ってくる頃と思っていたの、どこへいらっしていたの?」「. . .路地のあたりで子供らとバスケットボールをしてたんだ。」

(新井正一郎)