Monologue in New York

「ガラスの壁」はあるのか

 わが Art Department のチームメート、テリーサが退職した。2年間、毎日顔を合わせ、一緒に仕事をしてきた仲間だけに、さみしいものがある。新しい仕事が良い条件で見つかったそうだ。

 それにしても、アメリカでは本当によく人が動く。私がこの会社Fadaで働き始めてからわずか2年の間に半分の人は辞めてしまった。終身雇用が基本の日本とは違って、よく仕事や家や配偶者(?)を取り替えることは聞いていたが、これほどとは驚いた。私もこの調子では4-5年も居れば、最長老まちがいなしだ。前述のテリーサも、Fadaのライバルである時計メーカーから転職して5年勤務し、そして今、また別のライバル会社によりよい待遇で迎えられる。

 変化をもとめ、動きをおこすことにたいして、だれもあまりネガティブな印象をもっていないようだ。開拓精神の名残だろうか。

 後任の人間を雇うべく、求人を始めなければならない。ここで最も一般的なのは、New York Times の日曜版に求人広告を出すという方法。日曜の求人欄は、それだけで日本の新聞の夕刊分くらいの厚みのもので、求職中の人はたいていチェックするという頼もしい存在だ。

 グラフィックデザイナーを求人すると、100通近くの履歴書(レジメ)がファックスで送られてくる。アメリカのレジメは日本の履歴書と違い決まった書式がなく、学歴や職歴、そして特技、語学やコンピュータの知識などを太字で強調し、全体をレターサイズ一枚に収める。中には、なんと本人の年齢や性別などのデータは書く必要がない。写真を付ける習慣もないので、雇う側としては、面接のその時まで、相手が男性か女性か、どんな肌の色をしているかはわからない。要は本人に能力があるかどうかである。個人主義の国だなとつくづく思う。

 ではアメリカの就職状況は果たして本当に能力主義で公正なものなのだろうか。

男女差別に関しては、私の見る限りほとんどないといっていいどころか、ものすごいおばさんパワーに男性の方が押されてたじたじという場面にしばしばぶつかる。もしかして逆差別かもしれない感すらある。

 人種差別はどうか。私ははっきりいってあると思う。雇う側として、意識的に有色人種を避けているわけではないが、だれしも自分の直属の部下を雇う場合、やはり自分とはあまりかけ離れていない、うまくやっていけそうな人物を選択するのが人情だろう。その点、白人が数的に多いこの国では、白人が優位に働けるのは当然のことかもしれない。わが社をざっと見回すと、ボスがユダヤ人だと秘書もユダヤ系、ボスがアジア人だと部下もアジア人という組み合わせがやはり多い。自分自身が就職活動を経験してみて感じたことは、白人社会の中に切り込んでいくのは容易なことではないなということだ。何十社と面接に回ってみた結果、アジア人である私に特別な関心をもってくれたのは、いずれも担当者がアジア系の会社であった。偶然ではないと思う。

 しかし、Affirmative Action などの規制もあり、人種的に片寄った採用は問題が生じるので、受付の目立つところにだけ有色人種を割り当て、中のオフィスは「真っ白け」という会社も多いらしい。表面的に取り繕うだけでなく、真に異人種が腹蔵なく分かり合える時代がくることを私は願ってやまない。いや、もうすぐそこにその時代が来ているのかもしれない。

 さて、テリーサの後任にはどんな人が来てくれるのだろうか。私たちとしては、仕事ができて、毎日笑わせてくれる、人柄のよい人であれば、男性でも女性でも、何色でもいいと思っているのだが、どうなることやら。        

(布川 栄美)