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米国社会学会に参加して−リビジョニズムの試み−

 2000年8月、ワシントンDCで行われたアメリカ社会学会の第95回年次全国大会に参加した。日頃から親交のある米国社会学会会長のジョー・フェイゲン教授から誘われたことがきっかけであった。米国の学会には一度も参加したことはなかったが、米国の歴史家や社会学者と細々とであるが日頃から交流があったし、フェイゲン会長や他の米国人の友人たちから学会活動の様子はよく聞いていたので、何事も経験とプログラム委員会あてに応募することにした。

 当初、私個人の研究発表を促されたと勘違いしたのだが、じつは私にセッションをひとつ組織しないかというお誘いであることが、応募締切の約1週間前に判明した。幸い、かねてから情報交換をしていた米国と日本の研究者が何人かいたので、電子メールで連絡を取り合い、あたふたと準備した。コメンテーター(ワシントン大学テツデン・カシマ教授)と発表者3名とは確保できたが、時間に追われていたために司会者が見つからず、発表者の一人である私が兼ねるというトンデモナイことになってしまった。

 幸運なことに、私たちの日頃の関心事である日系人戦時強制立ち退き・抑留が、今年度の大会のテーマ「抑圧と支配と解放」にぴったりだった。そこで、「人種と法と市民的自由−第2次世界大戦中の米国政府による日系人対策−」というタイトルの下、次の3本の研究発表を企画した。1)米国市民権放棄者の国外追放問題、2)ペルー日系人米国抑留問題、3)米国本土とハワイでの日系人対策における本質的同質性。いずれも、これまであまり研究されていないテーマである。

1)米国市民権放棄者の国外追放問題

 第2次世界大戦中の日系人強制収容にからんで、市民権を侵害する米国当局に抗議して大勢の日系アメリカ人が市民権を放棄した。また一部には他の日系人にも市民権を放棄するよう迫った人々もいて、そのため不本意にも、あるいは時の勢いで市民権を放棄した人々もいた。彼らの多くは戦後日本へ「送還」されるのだが、この特異で不幸な事件を研究している学者は日本でも米国でもめったにいない。そこで、この問題を長年研究している千葉敬愛大学の村川庸子助教授に発表をお願いすることにした。

2)ペルー日系人米国抑留問題

 日本人・日系人米国抑留事件の中でも、ペルー日系人米国抑留はもっとも研究が進んでいないもののひとつである。1981年に米国の学者が米国政府公文書と生存者の聞き書きをもとにパイオニア的研究書を発表しているが、事実を発掘するのが精一杯で充分な歴史解釈が提示されたとは言いがたい。その後、この問題を正面から取りあげた研究は日本では、私がアメリカス学会の『アメリカス研究』に2本、米国では法制史家と法学者がそれぞれ1本ずつ発表しているに過ぎない。今回のセッションではこのうちの1本を発表している法制史家、ジョージア州立大学のナツ・テイラー・サイトウ準教授に国際法の視点から発表してもらうことにした。(ちなみに、サイトウ準教授のお父上は、英文毎日の記者として、またFM大阪の英語ディスクジョッキーとして活躍した日系二世のモース・サイトウ氏である。若い頃一所懸命英語を勉強した日本人の中で、サイトウ氏のことを記憶している人は多いのではあるまいか。)

3)米国本土とハワイでの日系人対策における本質的同質性

 従来の日系人戦時抑留研究では、本土と違ってハワイでは集団立ち退きはなく、ハワイは特別なケースであるとして、日系人抑留研究では脚注的に扱われるのがふつうである。しかし、ハワイと米国本土で採られた日系人対策の狙いを詳細に検討すると、その違いよりはむしろ同質性が浮かび上がってくる。このテーマは私が担当したが、「敵性」外国人の逮捕・抑留、ハワイ・本土での日系人の強制立ち退き・抑留、ハワイ・本土の日系社会対策、の3点について比較検討し、ハワイ・本土の日系人対策の本質は「好ましからざる」マイノリティーの封じ込めであるとの結論を出した。周知の通り、西海岸では日系人は集団強制立ち退き・収容により完全な政府の管理下に置かれた。またハワイでは陸軍当局が准州全体を戒厳令下に置き、准州民を完全に掌握したが、その際に日系人に対する警戒心と猜疑心が陸軍当局の政策に大きな役割を果たした。

 戦時中ハワイ陸軍がどのように准州を統治したか、またその統治下で、准州民、特に日系社会がどのように扱われたかについての研究は極めて不充分である。これらの点を詳細に分析すると、本土・ハワイでの日系人対策の同質性がいっそう鮮明になると私は確信している。

 少し大げさに言わせてもらうなら、いわゆる修正主義、つまり定説の修正を狙ったのである。それだけにやや緊張して発表したが、幸いにも、狙いはおもしろいと好意的な評価を得た。しかし、発表内容を文章化して出版するのはこれからであるから、厳しく批判されるのはその時であろう。

 セッション中に、フロアーから興味深い質問やコメントが出たが、それよりもおもしろかったのは、セッションが終了してからの歓談や情報交換で、セッションそのものよりも充実していた。私が20年間も尊敬してきたにもかかわらず、一度もお会いする機会のなかった社会学者スタンフォード・ライマン教授にお会いできたのは幸運だった。

 また、「戦時民間人転住・抑留に関する委員会」の公聴会記録の編集責任者であるバーバラ・クラフト博士も見えた。同委員会は、1980年に米国議会によって設立され、日系人戦時抑留の調査とその是正策の勧告を命じられた。1981年7月から12月にかけて、西海岸と東海岸を中心に10箇所で述べ20日間に及ぶ公聴会を行い、750名以上の人々の証言を記録した。この証言記録は、現在筆耕のうえ出版の計画であるが、その責任者がクラフト博士である。

 このような機会に恵まれたのは実に幸運であった。ワシントンの8月と言えば、ワシントニアン(ワシントンの住民)の多くが外へ逃げ出すほどのうだるような暑さで有名で、町で見かける人の多くは観光客だという。しかし、この時はたまたま意外に涼しくさわやかな天候に恵まれた。恩師や長年の友人とも再会し、私にとっては思い出の夏となった。

                           (山倉 明弘)