Scenery

 文学の中のアメリカ生活誌(26)

Buffalo(バッファロー)インディアンバッファローはインディアンがやってくるずっと昔からアメリカに生息していた。特にミズーリー地方からロッキー山脈地帯には群れをなしてうろつきまわっていた。移住してきたインディアンは、この巨大な動物を殺し、その肉を食べ、毛皮で衣服やテントや盾や鞍や投げ縄を作り、筋骨を針にした。またその胃袋でなべやバケツなどの台所用品を、角でスプーンや柄杓を作った。樹木のないところに住むインディアンは、その干し糞さえ燃料に利用した。余った毛皮はミズーリー河を上ってくる毛皮商人に売った。

 Walt WhitmanがLeaves of Grassのなかで「見たまえ、コーカの川の向こうで、短い巻葉や草を食べる無数の野牛の群れを」と歌ったように、1830年には7,000万頭のバッファローが南西部の平原を濶歩していた。が、1865年には1,000万頭に減り、1895年にはわずか800頭になった。バッファローがこのように激減したのは、インディアンが不注意にも撃ち殺し過ぎたのが原因と思われているが、実はそうでない。その真の理由は後からやってきた白人たちが連発銃でむやみに殺したためだ。なぜ白人がインディアンの食物や衣服や現金収入の源であったバッファローを容赦なく撃ち殺したかというと、インディアンの全滅を狙ったからだ。南北戦争中の将軍であったPhilip Sheridanはテキサス州の国会議員にこう言った。「永遠の平和をもたらし、文明を進行させる唯一の方法だから、猟師に絶滅するまでバッファローを撃たせ、その皮をとらせ、売らせるんだ」。第18代大統領になった南北戦争中の北軍の最高司令官Ulysses Grantも彼と同意見であった。1875年に議会がバッファローを保護する法律を可決すると、彼は拒否権を発動したのである。1860年代にインディアンの土地(西部)へ伸びていった鉄道は、このバッファロー狩りに拍車をかけた。カンザス・パシフィック鉄道はバッファローをいわゆる殺りくのスポーツとして撃ち殺したい乗客のために特別列車を連結した。列車がバッファローの住む平原にさしかかると、乗客は列車の窓からバッファローに向かって撃ちつづけた。鉄道会社がインディアンの攻撃から鉄道敷設労働者を守るために雇った拳銃使いもバッファロー狩りに精を出した。彼等が撃ち殺した一部のバッファローの肉や舌(当時は珍味と考えられていた)は東部の増加する都市へ鉄道で送られたが、ほとんどのバッファローの死体は平原に野ざらしにされていた。ついでにしるすと1年に4,300頭を射留め、Buffalo Billという異名をとったWilliam Frederic Codyも鉄道会社に雇われたハンターであった。

 生活の糧を奪われたインディアンが白人の居住地を襲撃しはじめると、白人は政府に保護を求めた。こうして陸軍省が派遣した騎兵隊とインディアンとの間で死闘が半世紀間つづいたのである。その中には有名な第7 騎兵隊の隊長G. A. Custerもいた。インディアンと白人との戦争は1886年、アパッチの酋長Geronimoの降伏で終止符を打った。生き残ったインディアンはreservation(1789年の言葉でインディアン保護区の意味)に移され、暮らすようになるが、その後も白人は多くの約束違反をした。彼等がアメリカ市民権を得るのは1924年になってからであった。1895年にはわずか800頭に減ったバッファローは、その後保護区域が建設され、現在は6万頭を越えているという。

Red-light district(紅灯地区)ピューリタンたちはキリスト教的社会の建設のため多くの犠牲を払ってニューイングランドに移住してきた。だが、彼等の社会は万事理想郷のようにはいかなかった。17世紀の宗教的にきびしいボストンにおいてさえ、酔っぱらい、ニコチン中毒者だけでなく、かなりの数の売春婦が見かけられた。太西洋岸の他の4 大都市でもこの堕落した商売が見られた。例えば1699年から1779年までほぼ18世紀を通じて南部の植民地の州都であったウイリアムズバーグには、3軒の売春屋があった。だが売春が本格的に増えたのは、アメリカが辺境の生活を脱し、急速に都市化してゆく19世紀になってからだ。

 記録によると、1869年のフィラデルフィアとシカゴにおける娼婦の数は、前者が約12,000人、後者が約7,000人であった。ヨーロッパ移民の入り口であるニューヨークの娼婦数については統計資料がない。だが、620軒以上のbrothel(娼家)があったというから、その数はかなり多かったと推定される。Leaves of Grass(1855)を書いた詩人Walt Whitmanは、若い頃勤めた地元のBrooklyn Daily Times に「日が暮れると、ニューヨークのあちこちの通りには客を求める娼婦が1人、あるいは2人、3人ずつ立っている。庶民だけでなく、40才以下の上流階級の人々も娼家に行くのが習慣になっている」と記している。彼はニューヨークのあらゆる階層に蔓延していた売春業に心を痛めたようで、よくこの問題を論じた。1858年12月9日のBrooklyn Daily Timesの中で彼はニューヨーク市内の2,000人の娼婦を対象にしたW. W. Sanger博士の10年間の研究成果 The History of Prostitution を論じ、この問題の真の対策は博士の提案のように、売春を許可制(公娼制)にして、娼家を劇場やレストランで賑わうwhite-light district(白色灯地区)から分離したどこか別の地区に追いやるのが一番だ、と述べた。

 当時のアメリカ人たちはよく言われるヴィクトリア朝的お上品ぶりを誇りにしていたので、娼婦はprostituteでなく, street walker, street sister, cruiser, women on the pavement と呼ばれた。作家Stephen Craneは、1893年に若い美しい女性がひどい環境に育ったために、娼婦に転落し、最後は自殺するという筋のアメリカの最初の自然主義小説 Maggie を出版したが、その副題はA Girl of the Streets となっている。red-light districtということばは売春宿の正面窓に赤い明りがともっていることに由来し、1890年代に生まれた。作家John Dos PassossはThe 42nd Parallel(1930)の中でこの言葉を用いている。「工場の他の独身者は紅灯地区に遊びに行き、夜の女をひろったりする・・・。」もっとも紅色だけが各国共通の売春宿の色というわけでない。南米コロンビアのカルタヘナでは売春街はblue-light district (青灯地区)と呼ばれた。

売春は社会の変化と密接に関係している。1890年代までに娼家にも電話がひかれ、娼婦たちが電話で商売をするようになると、売春宿はhouse of call, 娼婦はcall girl と呼ばれるようになった。1880年から1890年にかけてニューヨークの中心的な歓楽街はThe Tenderloin(テンダーロイン)と呼ばれた。この語の由来は、ニューヨークの42番街をパトロールしていた警官が、手心を加えた見返りに贈られた賄賂で上等なテンダーロインが食べられるといったことだとされている。前記の作家 Craneは In the Broadway Cable Car (1902)のなかで、「ニューヨークの陽気な連中が食事するレストランや劇場がにぎわうテンダーロインで、ケーブルカーは晩になると新しいタイプと思える社会階級の人を乗せる」と書いている。           

(新井正一郎)