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「アメリカからアメリカスへ」:マーク・トウェインの爆発と予言

                  那須 頼雅

 この「アメリカからアメリカスへ」は、マーク・トウェイン文学に一貫する視座から考えると、「神の国から、異教の国々へ」となる。この作家の視座とは「不敬」irreverenceである。これを言い換えれば、「反ヨーロッパ」で、古いヨーロッパ文明に対する完全な拒否、思い詰めた反抗である。この決然と旧大陸ヨーロッパとその文明とに決別し、新大陸アメリカをも通り越し、全くの別世界にマーク・トウェインの夢は大きく広がっていった。そのことを証すのが、1985年の世界繁栄はいずこの国に?についての彼のすぐれた予言である。その予言とはこうだ:「新たなる暗黒の時代が、ただアメリカにとどまらず、ヨーロッパ文明の恩恵に浴する他の国々にどす黒い影を被せることになるが、中国のみは、またもや“光明の時代”にかえり咲く」。この100年近くもの昔、それもはるか太平洋の向かい側の遠い国アメリカの地で、黄色人種でもない一アメリカ人が、これほど正確な予言をすることができたことに、われわれ東洋人は、ただただ驚くほかない。とくに、今の今、欧米文明の恩恵(?)を浴びるほど浴び、あげく、この「どす黒い影」のもとに頭を抱えて怯え蹲る日本人には、この予言はかくべつ強烈な響きをもつ。

 マーク・トウェインは西部人であって、西部人でないというアメリカ文学作家のなかでは異色の作家である。サム・クレメンズは1835年にアメリカ西部ミズーリ州に生まれるが、マーク・トウェインという作家は1869年頃に、アメリカ極西部ジャカスヒルで生まれた。従って彼は宿命的に、誕生日、誕生名、誕生地を2つずつもった。人間サムは父ジョンと母ジェインとの間に生をうけた。作家マークはむくつけき男どもばかりの不毛の地、極西部に生まれた。子供サムはたしかに白人の父と白人の母との間に生まれたのだが、作家マークは、荒涼たる砂漠の極西部に生み落とされた「孤児」「混血児」であった。1881年、「ニューイングランド社交会」The New England Societyの恒例の晩餐会で、彼は「私のアメリカの先祖はインディアンであります。それも初期のインディアンです。貴方たちの先祖が私の先祖の頭の皮を生きたまま剥いだのです。それで、私は孤児なんです」とスピーチしたことがある。この発言はたしかに彼一流のトール・テイルだが、それはともかくとして、マーク・トウェインの意識の中に、他の普通のアメリカ作家のもたなかった異常な“ストレンジャー”意識があったことは間違いない。事実、彼は“ストレンジャー”、それも、“ミステリヤスなストレンジャー”として、特異な動きを示した。その動きこそ、ここでの「アメリカからアメリカスへ」ですぐ連想する「旧きキリスト教の神の国から、まだ未知の新しき異教の国々へ」の憧れである。この動きがあって、前進があり、進歩が望める。動きなきところに未来はない―これがマーク・トウェインの一貫した信条だった。一つだけの宗教をもつ国家は、どうあがいても病的な国家主義に落ち入る。自国一辺倒の愛国主義のみがはびこる“神の国”に化ける。あげくは、他国侵略にはしり、残虐行為におよび、人権を蹂りんし、自由を剥奪するという非道を冒す。それを黙視できず、普通の良心の士であれば我慢できず、他の信頼できる国を求めて逃避、いや他国への脱出・亡命を謀ろうとする。謀反人と呼ばれようと、非国民と軽蔑されようと構わず、心から互いに理解し合え、助け合える友のいる“テリトリー”を探し求め、独りだけの冒険の旅に出る。こういう「国があって、国がないホームレス」の浮浪児こそ、ハックである。

 この天涯孤独の主人公ハックを描く『ハックルベリ・フィンの冒険』発刊から約20年後に密かに書かれた死後出版の「落伍者たちの避難所」The Refuge of Derelicts の主人公ストームフィールドと先のハックとの間には、見過ごすことのできない共通点がある。その共通点とは、奴隷制度に象徴される白人社会の残虐性・非道に我慢できず逃亡に走る奴隷ジムをあくまで庇い、ジムと共に筏の上の“同棲生活”に入り、互いの間に親密な感情が芽生え、あげくは、ジムを助けるためなら、「おら、じゃー、地獄へ落ちよう!」と決断するハックと、白人社会の目に余る非道・堕落に我慢できず、正しいと信じる道を押し通し、みんなから見放されて孤立し、あげくは、落伍者の避難所に身を寄せる連中を暖かく庇わずにおれないストームフィールドとは、完全に一致する。たしかに、片や14才の少年、片や80才の老人という年齢差こそあれ、「汚れた良心」に染まらず、「汚れなき、清いハート」に従い、これによりどんな危険な目に遭わされようと、あくまで「暗闇に座す薄幸の人々」を助けようと暖かい手を差しのべる救世主であるという点で、少年ハックと老人ストームフィールドとは正に同じプロタゴニストとなる。

 作者マーク・トウェイン自身、若いサム時代、南北戦争で南軍兵士として、奴隷州ミズーリ州のために戦った。あげくは、ミズーリ州を裏ぎり、脱走し、「国あって、国がないホームレス」の悲哀を噛みしめる苦い経験をもつ。そして、マーク・トウェインが到達した信念こそが、完全な南北融和への道、つまるところ、それは「南部11奴隷州から、真の自由で平等なアメリカ合衆国へ」こそが祖国再生の唯一の選択であるというものだった。その後、文学作家の道に入ったマーク・トウェインの目前で、まことに意外も意外、地球上唯一の自由の国アメリカ合衆国が変貌、他国の自由を奪う“海賊国”に堕した。

 クレヴクールのいわゆる「新しき人間」アメリカ人の特性と云えば、「不敬」irreverenceと云えよう。さらにアメリカ人の最もユニークな行動様態はと云えば、「西への動き」American Processionと云うことができよう。ゴールド・ラッシュの異常な熱気にあおられ、ヨーロッパのキリスト教文化・文明圏からいち早く離脱し、物質主義・拝金主義に狂奔すると云う「不敬」を冒したのはアメリカ人だったし、マニフェスト・デスティニーの美名の下に「東から西へ」の侵略・征服に血道をあげたのもアメリカ人であった。このような「不敬で侵略一辺倒のアメリカ合衆国」が果たして一つの国として存続し続けれるであろうか。こういう不安と疑いがマーク・トウェインの心に判然と湧き起こった。それが最高潮に達したのが1898年4月25日、マッキンリー大統領がキューバの独立運動を支援するという名目でスペインに対して宣戦布告を行った時である。これがいわゆる「米西戦争」で、アメリカ合衆国が本格的に初めて帝国主義的な海外膨張政策にのりだした戦争の時だった。この戦争は当時のスペインの植民地であったキューバとフィリピンにおいて行われ、アメリカ合衆国はこれに勝利し、同年12月10日にスペインと講和条約を結んだ。この講和条約によってアメリカ合衆国はフィリピン、プエリトリコ、グアムを獲得し、キューバに軍政をしいて半植民地化にするという非道にでた。またさらに、アメリカ合衆国はフィリピンにその魔手を伸ばし、フィリピン独立の指導者アギナルドを謀略にかけて捕らえ、その独立の芽を完全に断ち、フィリピンをも植民地統治下においた。

 こうして「自由の国」アメリカ合衆国がこともあろうに、ヨーロッパ列強に組して他国への侵略を重ね、「暗闇に座せる人々」の自由を力ずくで奪い、それに反対するものたちを、捕縛し、拷問にかけ、殺害するという非道に走った。これは断じて黙視できないとして、これに反対する全国組織が国内に結成された。それが、すなわち、アメリカ反帝国主義連盟のAmerican Anti-Imperialist Leagueである。この団体の主旨に全面的に賛成し、この副会長として主にペンの力で活躍したのが、マーク・トウェインであった。

 マーク・トウェインは毎朝欠かさず、その日の新聞を読み、当時のアメリカ社会の目を覆うばかりの腐敗、堕落、残虐、恥性欠如の事件の記事を見て、「アメリカ人は何者?」というクレヴクールの問いかけに正しく答えることこそ、作家としての自らの使命だと思った。そして、この使命を完璧に果たすために、彼は「神の国」の設定する「天国」に逝くことを拒み、ハレー彗星とともに「地獄」に行くことを選んだのでは・・・。彼はみずからの死を1年後に控えた1909年に伝記作家A. B. ペインにこう洩らしたという―「私はハレー彗星と共にこの地球に来た。そのハレー彗星が来年に再度、この地球に接近してくる。この彗星と共にこの地球を去りたいものだ。もし、私がこのハレー彗星と行を共にできないなら、これにまさる痛恨事はない」。この非常識な彼の願いが14日という僅かなズレで適えられた。まさにマーク・トウェインは「アメリカからアメリカスへ」の夢の実現を見事に果たしたと云うことができよう。

(神戸女子大学教授・同志社大学名誉教授)