Research

ベネズエラの石油経済移行期における社会経済構造の変化

 

 ベネズエラ市場に大量流入した「メイド・イン・ジャパン」の分析から 1970年代の二度にわたる石油危機や、世界的に見られる環境問題に対する意識の高まりから、省エネ技術や代替エネルギーの開発が進められ、リサイクル、太陽光発電、ハイブリッドカーといった言葉を見聞きするようになって久しい。しかし現実は、世界のエネルギー消費は着実に伸びており、いまだ商用エネルギーの約9割を石油などの化石燃料に依存している。最近、長期にわたる原油価格の高騰から、石油輸出国機構(OPEC)の動向に再び世界が注目しているのは、そのことを如実に表しているといえる。

 ところでこのOPECの一創設メンバーで、現在も同機構の議長国として積極的な役割を果たしているのが、南北アメリカからの唯一の加盟国、ベネズエラである。この国は1950年代まではアメリカに次いで世界2位の産油量を誇り、現在でも世界6位(OPEC内では第3位)の原油生産を維持している。だが、こうした華やかな「石油外交」の成功とは裏腹に、他の低開発諸国同様、累積債務問題、失業、都市貧困層の拡大、汚職の蔓延など様々な不安要素を抱えている。豊富なエネルギー・鉱物資源を保有しながらも、いまだ十分な工業化をはかれず、依然石油に大きく依存した歪な経済構造を保っているのはなぜだろうか。潤沢な石油収入がなぜ国内の産業発展へと生かされなかったのか。本発表では、この問題の歴史的起源に分析の焦点をあててみたい。

 そしてそのアプローチとして、この国が農業国から石油経済へ移行しつつあった時期、つまり1920〜1940年にちょうどこの日本から雑貨や綿製品を中心とした日本製品が大量に流入し、最終的には両国間の貿易不均衡問題へと発展したわけだが、この史実を取り上げてみたいと思う。

 「現代のベネズエラは一人の人物と豊富な地下資源によって建設された」とよく言われる。「豊富な地下資源」とは勿論石油を、「一人の人物」とは1908年から28年間軍事独裁体制を維持したファン・ビセンテ・ゴメス将軍をさしてのことである。彼は、民族主義的で反米路線であった前政権の姿勢を一変させ、積極的に貿易の自由化と外資優遇政策を推し進めた。第一次世界大戦により石油の需要が増加したこともあり、ゴメスの開放政策によって多くの国際石油資本(メジャー)が進出してくることになる。1930年代既にベネズエラの石油は、アメリカ系資本のスタンダードやイギリス・オランダ系のロイヤル・ダッチ・シェルら計7社に独占されていたという。

 こうした経緯を見れば単に、欧米列強諸国を中心とした世界資本主義システムに、一次産品輸出国として従属していった一事例、と受け止めることができよう。

 ところでベネズエラ国内がこのように大きく揺れ動いていた時期、実はこの日本から雑貨や綿製品を中心とした日本製品が大量に流入し始めていた。当時の日本は軍備拡張と工業化推進のために多額の資本を必要としていたが、その財源として綿布・雑品輸出から得られる外貨に大きく依存していた。したがって1930年代、日本の市場拡大を阻止するためのイギリス帝国経済ブロックが形成されるや、日本は中近東、アフリカそして中南米へと、自国綿製品の輸出市場の開拓を進め、各地で欧米列強諸国との激しい市場争奪戦を繰り広げたのであった。ベネズエラにおいても1925年に日本から初の商業使節団が到着して以降、官民が一体となって宣伝活動を行ったこともあり、低廉な日本綿製品は瞬く間にベネズエラ国内市場を支配していった。

 こうした日本製品の市場寡占化に対して、国民はどういった反応を示したのだろうか。当時カラカス商工会議所が発行していた機関誌や両国外務省に保管されている外交資料などをもとに、その点を明らかにしてみたい。(前述の機関誌には1938年からメ

La Batalla del Algod溶モ 「綿を巡る論争」といったタイトルの記事が数回にわたって掲載され、この問題について各方面からの意見、要望が記録されている。)国内紡績業の被った被害は甚大なものであった。外国製品に市場を奪われ1937年には、在庫原綿が累計700トンにまでのぼった。工場の稼働時間短縮や、労働者の削減を余儀なくされ、倒産に追い込まれた会社も数社あったという。

 こういった危機的状況下で彼ら国内綿業者は以下のような主張を繰り返した。「日本人労働者の平均賃金が日給約0.2ドルであるのに対して、我々は自国の労働者に約2ドル支払わなければならない。したがって日本製品との価格競争は不可能である。日本の作為的なダンピング輸出を何らかの形で阻止しなければ国内産業は消滅するであろう。」商工会議所側も同様に、国内綿花生産の停滞と国内産原綿のコスト高(海外一般相場=約25ボリーバル/100ポンド、国内相場=約70ボリーバル/100ポンド)を理由に、国内産業保護のための関税引き上げを強く政府に要求するのだった。

 だがその一方で、日本製品からの恩恵に浴した輸入業者や一般消費者らの分析は大きく異なっている。つまり彼らの目には「国内綿産業界が市場(消費者)のニーズに応えるべく企業努力を怠った、その結果」と映った。そして物価高に苦しむ都市中産階級の存在を強くアピールし、「我々は、良質でより安価な製品を求めている。ごく限られた企業家グループ保護のために輸入制限を加えることは、より大きな負担となって我々に還ってくるはずだ」と、あくまでも自由貿易を支持した。

 こうした論旨の分析を進めていくと、そこから当時ベネズエラに起こっていた社会経済構造の変化とその矛盾を垣間見ることができる。つまり、石油開発の進展によって莫大な外国資本が投下されたことにより、政府歳入の増加をもたらした。また、関連産業やサービス業での雇用機会が増え、農村から都市への人口流出、そして都市中産階級や労働者層を生み出していった。

 しかしその一方でそれらは、農業の衰退、農産品(綿花)生産の減少・価格の高騰を、また都市部でのインフレや労賃の高騰なども誘発し、最終的には国内産業の競争力を低下させていくことになったのだった。更に石油開発や日本製綿製品の輸入等によって富を得た少数支配層や新興鉱業・商業ブルジョアジーらは、逆に自国産業の保護や育成にとっては一種の阻害要因になっていたということ、つまり彼らの経済的、政治的諸利害は国内発展の側にはなかったという点も前述の論争から見いだすことができる。

 戦前期活発に行われた日本と中南米諸国との貿易関係に関しては、未だ十分な研究がなされていない。資本主義世界経済に包摂されていったラテンアメリカの経済史を、これまでは一般的に欧米諸国との従属関係のみにおいて捉えられてきたわけだが、日本との貿易関係という新しい座標軸を設けることによって、様々な矛盾を内包していたラテンアメリカ諸地域の内部構造に新たな光をあてることができるのではないかと思われる。

(野口 茂)