Women in the New World

新大陸に渡ったスペイン女性を考える

 

はじめに

 アナール学派が女性の存在に注目し,1990年に『 女の歴史 Storia delle donne in Occidente』を刊行しててから10年が経つ。この『女の歴史』では,ギリシャやローマの時代から現代に至る西ヨーロッパ,とりわけキリスト教世界において,女性が男性と平等な権利や自由を享受する過程が明らかにされた。

 この成果をさらに掘り下げるべく,ここ数年スペインでも修道女や寡婦などをテーマに自国の女性史研究が盛んである。スペイン国立通信大学の2000年度夏期講座にも「アンシャン・レジーム期における女王とヒロイン−女性と権力−」と銘打ったプログラムが組まれ,女性史への関心の広さを窺わせている。

 スペイン黄金世紀の女性史が再構築される中,大航海時代に始まる新しい歴史のダイナミズムに身を任せた女性にも知的好奇心が注がれて当然であろう。ここでは,どのような女性がスペインから新大陸へ渡ったのかを中心に少考する。

 

1.征服期

 1497年,カトリック両王は勅令を発し,コロンブスの第3回目の航海に30人の女性を連れていくことを命じた。以後,1509年から1519年まで300人に及ぶスペイン人女性がエスパニョーラ島やキューバへ渡った。この中には,ディエゴ・コロンの妻で,初代サント・ドミンゴ副王妃となったマリア・デ・トレドがいた。彼女はカトリック王フェルナンドの姪で,アルバ公爵家の出身であった。その女官として,後にキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの妻となるマリア・デ・クエリェールやコルテスの妻となったカタリーナ・ファレスも名を連ねていた。

 また,コルテスに従軍した『ヌエバ・エスパーニャ征服の真実の歴史』の著者ベルナル・ディアス・デル・カスティーリョも,メキシコ征服を祝う席で男たちが踊りに誘った女性のうち8人の名を記している。例えば,マリア・デ・エストラーダは若くはなかったが,後にサンチェスというコンキスタドールと結ばれ,ポルティーリョ夫人は司令官であった夫が戦死し,寡婦となったなどと伝えている。

 女性たちは,男性との帰属関係が明らかであれば,たとえ功績を残さずともその名を歴史に留めることが可能だったのである。

 

2.渡航条件

 18世紀に入り,イギリス人エッセイストのリチャード・スティールは,「女は娘,姉妹あるいは妻,母であり,人間の単なる付属品である」と定義したが,こうした考え方はすでに16世紀の西ヨーロッパでは一般的であった。社会階層に拘わらず,正式な結婚によって誕生した娘はまず父親の,そして結婚後は夫の庇護下にあり,法的な立場を認められていなかった。従って,女性が新大陸への渡航手続きを正式に申請するには制限が設けられた。インディアス法(スペインの海外植民地統治のために制定された諸法)によれば,彼女たちの渡航は次のように大別される。

 まず,未婚者は父親や家族に同伴する形で渡航するように定められている。しかし,1535年に未婚女性の渡航が禁じられ,既婚女性が夫とともに新大陸で暮らすことが奨励されたため,未婚女性の数は減少を辿ることになった。

 夫が既に新大陸に居住していれば渡航許可取得の必要はなかったが,重婚を防ぐために二人が正式な夫婦であり,新大陸においても結婚生活を営むことを証明する必要があった。何らかの理由で妻を同伴しない場合は補償金を納めた上で一定の期間は単身で暮らすことが許されたが,これに違反した場合は禁固刑に処された時期もあった。

 また,黒人の奴隷に至っても妻を同伴することが義務づけられていた。新大陸で生まれ,スペイン人の家庭で養われた黒人の子供にとって,祖国とは何処を意味したのだろうか。

 寡婦の場合も興味深い。彼女たちは女性として法的立場を認められ,自分の名義で財産を所有することも許されたからである。ペルーの年代記作者インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガによれば,負傷して手足が不自由になったコンキスタドールたちと結婚し,夫の死後にエンコミエンダを相続して,若い男性と再婚するつもりだと公然と口にする女性たちも存在した。

 しかし,一方,相続した財産で修道院を創設し,自ら植民地に留まり,恵まれない少女たちを引き取って面倒をみる女性もいた。もちろん本国から派遣された修道女がいたことは言うまでもない。新大陸の修道院は規模が大きく,修道女にあてがわれた個室や畑の広さ,そして侍女の数などもヨーロッパの倍であり,その財力が窺われる。

 また,商売を営む者は,夫が他界しても嫡男が成人するまで商いを続けることが認められた。女性が消費者という立場以外に,どのような形で新大陸貿易に参加していたのだろうか。これも興味深い点である。

 

3.女性の地位

 既に見てきたように,新大陸における女性の地位は父親や夫の社会的地位に準じるものであった。しかし,植民地ならではの地位を獲得した女性も存在した。

 法的に厚遇されたのはコンキスタドールの寡婦や娘であろう。女性は土地などの財産所有を禁じられてはいたが,相続による所有は許されていた。従って,コンキスタドールの寡婦や娘はエンコミエンダを労せず獲得することになった。新大陸では未婚のスペイン人女性の数が少なかったと考えられ,一旗揚げようと入植してきた男性にとって彼女たちは格好の結婚相手となったのであろう。男性はこうした結婚によって富と栄誉を手中にしたからである。しかし,夫が他界すると,その所有権は再び女性の側に戻ることになった。

 新大陸でも統治権を相続した女性はいる。16世紀初頭にアルドンサ・ビリャロボスは僅か6歳でマルガリータ島の統治権を父親から相続し,約半世紀を治めた。また,1541年,ペドロ・デ・アルバラードの寡婦ベアトリス・デ・ラ・クエバはグアテマラ市参事会の要請を受けて統治者に選ばれ,就任直後に市が推す人物に統治権を委譲することで政治の駆け引きを成功させた。しかし,インディアス法は女性が政治的地位に就くことを禁じていることから,こうした女性の存在は例外と考えるべきであろう。副王の妃にも統治権は与えられず,寡夫の副王も少なくなかった。

 

結び

 新大陸における女性といえば,17世紀の尼僧フアナ・イネス・デ・ラ・クルスがよく知られ,その作品研究は多い。また,修道院における生活や活動などに関する考察も進められている。しかし,さらに多くの様々な女性にも目を向けていかなければならない。

 16世紀のスペイン女性は何を求めて新大陸へ旅立ったのか。ヨーロッパとは異なる環境の中でいかにして家庭を守ったのか。先住民に対してどのような眼差しを向けたのか。疑問は尽きない。

 断片的な資料に想像力を掻き立られるばかりだが,少しづつでも彼女たちの足跡を辿っていきたいと考えている。

(京都外国語大学専任講師 立岩礼子)