Special to the News Letter

「Americas (アメリカス)」の名前論としての意義

 森 住  衛

 

 「アメリカからアメリカスへ」という発想には名前論や命名論からみても興味深い問題提起がある。人間社会には日々いわゆる「新語」が出てきている。そして、この新しい言い方は多くの場合、新しい概念を呼び起こす。言い換えれば、ある概念は「ことば」ができたことによってその存在が明らかになる。ヤAmericasユや「アメリカス」もこの例である。この前提には、「<America (アメリカ) = the United States of America(アメリカ合衆国)>ではない」が根底にある。つまり、Americaという全体をあらわす概念がthe United States of Americaという特定の国や地域を表すのはよくないということである。これには筆者も賛成で、かの50州から成る国を「アメリカ」ではなく「アメリカ合衆国」と呼んだり、書いたりしてきている。そうしないと、中米、南米の人たちに失礼であると思っているからである。

 「アメリカ→アメリカ合衆国」の例と比べると、規模は小さくベクトルも逆になるが、考え方が同じ類として「イングランド→英国」とする例がある。この場合は特定の地域の名称を全体に当てはめている。英語教育界では長い間「イングランド=英国」としてきた。つまり、スコットランドやウェールズ、北アイルランドを軽視してきた。最近は是正されてきてはいるが、英和辞書のEnglandを引くと「イギリス、英国」が圧倒的に多かった。表見返しの地図にもかの国はEnglandとあった。そのために大多数の日本人が相手に「イギリスからですか」と聞くときに、メAre you from England?モと言ってしまう。答えにメNo, I am from Scotland.モなどと言われて、はてこの人はイギリス人ではなかったのかと思ってしまう。この構図が「アメリカ→アメリカ合衆国」にもあてはまる。ややもすると メAre you from America?モ などと聞いてしまう。中南米からきた人はなんと答えるだろうか。本来のあるべき意味で考えるとYesであり、慣例に従って考えるとNoになる。

 このように全体が特定の地域や国になっているのを是正するために、全体を表すことばを複数形にする。これがAmericas(アメリカス)という新語の登場の由縁である。名称を意図的に複数形にすることによって、America(アメリカ)は複数で存在するということを明らかにしている。この複数化によって、かの地域が多種多様であるという「拡散(diversity)」だけでなく、共同体であるという「統一(unity)」を暗示させる。これに類似した例にKoreasがある。朝鮮半島という地域全体を表す呼称は英語ではKoreaであるが、この日本語訳はなかなかやっかいである。現在のところ筆者は南北両者を表す言い方として「韓国・朝鮮」を使っている。そこで話されていることばは「韓国・朝鮮語」である。ちなみに言語学辞典では「朝鮮語」であり、筆者の勤務校の開設講座名も「朝鮮語教育講座」である。しかし、これでは北朝鮮の方に傾斜してしまうと考える人たちがいる。そうかと言って「韓国語」とすると、逆の不満がでてくる。最近のThe Daily Yomiuriには、初めての南北首脳会談の実現を知らせる記事にKoreasという言い方があった。朝鮮半島は近い将来に言語文化的、政治経済的に ヤOne Koreaユになる可能性がある。現在、たまたま複数のKoreaがあるのでKoreasと表している。Americasの場合は、Americaという全体を表す語があまりにも特定の国や地域に使われているがためのアンティテーゼである。

 Americasは名前論のうち地域や文化共同体に関するものであるが、複数化の言語名の例としてはEnglishesがある。'80年代からNew Englishes, Modern Englishes, World Englishesなどの気運が出てきた。英語はもともとEnglandから発した言語である。これが現在ではこの特定の地域に止まらず世界に広がっている。このためEnglishesが使われる。これもAmericasの発想と共通しているが、Americasがどちらかというと統一を志向しているのに対して、Englishesは拡散を強調していると言えようか。英語の拡散の核になっている地域は歴史的にはEnglandである。そのためこの言語の狭義は「イングランド語」となろう。ちなみに、筆者が編著の一端を担っている『ファースト英和辞典』(三省堂)では、Englishの項は「英語、(イングランド人が使っている)イングランド語」という語義を付している。

 このEnglishesという言い方は最近、人口に膾炙することが多くなった。筆者が関係する中学校用の英語の検定済教科書 (The New Crown English Series 三省堂) にも載るくらいになっている。Americasはどうであろうか。OED、Random House、『リーダーズ・プラス』など英語圏の辞書や日本の英和辞書のうち大きな辞書と言われているものを引いてみると、Webster(第3版)と『大英和』のAmericaの項目に、用例としてのみであるが、ヤthe Americasユ があった。また、大学用のテキストだが、本年度筆者が使っているテキストのLanguage and Culture for the 21st Century(成美堂)の中に出てきている。国民の姓名について触れた部分で、In many cultures, especially in Europe and the Americas, parents choose a name before the child is born.とある。さらに、Nunavutに言及した部分にThey (Inuit) will be the first indigenous people on the Americas to have such extensive autonomy.とある。

 「アメリカからアメリカスへ」の名前論は究極には言語観の問題になる。言語観はことばに関する我々の知見や判断の拠り所である。ことばをみれば我々の周囲や社会全体の不平等や不当性が反映されているか否かがわかる。となると、そのことばを変えれば少しは周囲や社会全体が変わってくる。「アメリカからアメリカスへ」というようにことばを変えれば世界が新しい視点で見られる。そのためにはヤAmericasユや「アメリカス」が英語圏や日本の辞書の見出し語に取り上げられて正当な市民権を得なければならない。その日はいつになるだろうか。

(大阪大学言語文化部教授)