Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(22)

 

Vacation (休暇)これは中世の英国詩人G.Chauserが初めて用いた14世紀言葉である。中世以降ヨーロッパでは、長い休暇活動は心身の疲れを癒す保養地への旅という形で流行していた。イギリスを例にとると、1702年に廷臣を引き連れてバース(有名な温泉地)を訪れたAnne女王は、たちこめた温泉の臭いがすっかり気に入り、その後何度もこの地に足を運んだ。王侯の愛顧はなによりの宣伝になった。次の20年間のうちに立派な施設を整えたバースは、たちまち金持ちや高名な人が好んで行く場所になった。アメリカでもコネチカットのスタッフォード・スプリングズ、ヴァージニアのバークレイ・スプリングズなどいくつかの保養地があった。だが、18世記のアメリカはまともな道路がなかったので、そうした保養地には長期滞在用の快適な宿はあまりなかった。1763年、バークレイ・スプリングズを訪れた若き日のGeorge Washingtonは、宿が見つからず、即席のテント泊まりを余儀なくされた。彼はその時のことを「ウインチェスターでテントがうまく手に入らなかったら、我々は非常にみじめな状態にあっただろう」と書き留めている。バークレイの保養条件はその後2、30年のうちに面目一新されたが、その他の湯治場の数少ない宿は、安っぽさのつきまとうものがほとんどであった。          

 それでも19世紀の初期には道路事情がかなり改善され、また海水、新鮮な水、とりわけ鉱泉水を利用した水治療がはやったために、健康になりたいと願う富裕層は、イギリスの上流階級の人々に倣い、上記の地やニューヨーク州のサラトガ・スプリングズなど大西洋岸沿いのいろいろな保養地に出かけた。当然のことながらそうした保養客の日記や書簡の多くは、自分の病状や温泉水の効能を伝えるものであった。例えば1829年、病気快癒を求めてバージニアの温泉地へ行ったJane Cary Randolphは、母にあてて、手紙を書いている。体調がすぐれなかったため、手紙が遅くなったことをわびる書きだしで、「我々はホワイトサルファーに2週間滞在しました。水をたくさん飲みましたが、あまり効果はありません。夫は効能があるといわれているソールトへ行ってみようかと言っています」で結んでいる。ところが1830年代後半になると、保養地イコール療養客の集まる所という図式が一変する。次は1839年に治療の目的でサラトガを訪れたJasson Russellの日記の一節だ。「逗留客のさまざまな楽しみの中には、土曜日以外の毎晩に行われるコンサート、集会、舞踏会があった。サラトガは病弱の人の集まる所というより、金持ちと上流階級の集まる所だ。おそらく健康な人は病人に対して50人対1人の割合だろう」。今や保養地は、上層階級の女性が気晴しに九柱戯という普段やれなかったことができる余暇活動の場所となったのだ。尤も中流階級や低所得層の人々はこの種の気晴しはいうにおよばず、仕事と関係のない理由でどこかへ旅する楽しみも持てなかった。彼等にとって休暇とは、夏に幾日かを最寄りのキャンプ場での過ごすちょっとした楽しみに限られていた。1857年にT.Addison Richardsが書いた当時の旅に関する最も詳細な情報誌llustrated Handbook of American Travel の中には、vacation(休暇)ということばは見当たらない。が、1850年代になると、このことばは私信や新聞に記録されだした。例えば1855年のNew Yotk Timesに掲載された“Vacations for Business Men”と題する記事には「ビジネスマンは仕事をやめて休暇をとり、スポーツやリクレーションをやるべきだ」とある。もっとも一般のアメリカ人が、生活のなかに余暇活動を組み入れるようになるのは1870年代になってからだ。      

Corn(とうもろこし)新しい社会を建設するためにイギリスから3,000 マイルも離れたアメリカへ移住してき初期の開拓民たちは、当座の種まき用にイギリスからいろいろな穀物を持参してきた。だがそれらはニューイングランドのやせた土地や耐え難い暑い気候ではまったく育たなかった。彼等を飢えから救ったのが Squanto というインディアンに教わったIndian corn(とうもろこし)だった。Squantoは1614 年にイギリス人に捕えられ、仲間のインディアンらと共に奴隷として売られたが、イギリス人宣教師に助けだされ、アメリカへ戻ってきた人であった。イギリスの土を踏んだだけあって彼の英語はうまかった。イギリスの開拓民らは彼の仲間が栽培していたとうもろこし畑に案内された時、それまで見たことがなかった穀物だったので、それをどう呼んでいいのかわからなかった。そこで彼等はその穀物を西インド諸島のタイノー族語名 mahiz にちなんで maize と言うようになった。 この言葉が初めて corn という呼び方になったのは1608 年であった。ニューイングランドの開拓民はSquantoから習った通りにとうもろこしを植えた。つまり「かしの木の葉がねずみの耳ほどの大きさになったら、3、4フィート間隔に穴をほって、肥料として鰊を入れ、その上にとうもろこしの種子をまき、最後に土をかけたのであった」。彼等は犬が魚を堀り返えさないように、種をまいてから40 日間前足を犬の首にしばりつけた。この植物は病気にかかりにくいうえ、栽培方法が簡単で且つ1 エーカー当たりの収穫量も小麦や大麦よりずっと高かったので、すぐにニューイングランド以外の植民地の人々の間に広がった。インディアンはまた植民地人にとうもろこしのいろいろな料理法を教えた。例えばアルゴンキアン族語 apan(焼いたもの)に由来する pone (とうもろこしパン)は、とうもろこし粉に水を加えて、平らな形にし、焼いたものであった。作家Mark Twain がA Trump Abroad(1880)で記した1629 年から開拓者たちが食べた hominy は、乾燥とうもろこしを粗びきにし、水で煮た粥で、アルゴンキアン族語rockahominieからの言葉であった。独立戦争前までのアメリカ人はよくこれを食べた。 succotashはいんげん豆ととうもろこしの煮込み料理である。現在はいんげん豆の代わりにりま豆を使っているが、元はいんげん豆であった。この料理のために彼等はインディアンがやっていたように、とうもろこしの茎が2、3 フィートにまで伸びると、その根木に豆の種を蒔いた。豆のつるが伸びると、茎を支柱に利用した。彼等はとうもろこしと豆を一緒に収穫し、料理することで、とうもろこしだけでは足りないヴィタミンを補い、またこの2 つの植物を一緒に植えることで、単一栽培で起こる微生物の発生を抑えることができた。さらにとうもろこしは無駄な部分のない植物であった。例えば stalks(1646 年にできた言葉で、茎のこと)は家畜の冬の飼料になったし、husks (1662 年の言葉で、とうもろこしの皮)はマットレスの素材に用いられた。こうしてインディアンから習ったとうもろこしは、アメリカ植民地の開拓民にはなくてはならない食料となった。不思議なことに開拓民らは、上述のとうもろこし料理の名称にはインディアン語を借用したが、とうもろこしにはインディアン語を使わなかった。その代わりに彼等はそれをIndian corn(とうもろこし)と呼んだ。             

(新井正一郎)