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ウォーレン・コートを回顧し続けるアメリカ社会

                   釜 田 泰 介

 アメリカ最高裁判所は、通常、首席裁判官の名前を付して呼ばれる。たとえば、20世紀の最高裁としてはウォーレン・コートがよく知られている。これは Earl Warren が首席裁判官に就任していた時代の最高裁を指しているのである。このような各時期の首席裁判官名を付した最高裁判所は、その時期が終わるとそれぞれ研究対象となってきたが、1953年から69年まで続いたウォーレン・コートについての研究回顧は、その法廷が終わりを遂げた直後の時期だけでなく後の80年代、90年代の今日になっても続いている。

 90年代の最近の例としては、Morton J. Horwitz, THE WARREN COURT AND THE PURSUIT OF JUSTICE (1998)を挙げることができる。著者はHarvard Law School の教授であるが、この書物は同教授が Harvard 大学の学部生を対象に行った講義を公にしたものである。30年前の最高裁の活動が、単なる歴史上の出来事としてではなく今日の社会を考えるために今なお大学の講義の対象として登場しているということに新鮮な驚きを覚える。このことは、ウォーレン・コートが幕を下ろしてから30年を経た今日、なお、この時期のアメリカ最高裁判所の残した足跡を回顧することが当時を経験したものだけではなくその後に生まれた若き世代をも魅きつけていることを物語っているのである。なぜウォーレン・コートは30年を経た今日まで回顧され続けられてきたのであろうか。それは、ウォーレン・コートが時代を越えた何かを持っているからであろう。言い換えれば、この裁判所に対する研究と回顧は他の時期の最高裁の回顧とは異なる意味合いを持っていると言ってよいのである。20世紀を終えるにあたって今一度この法廷が問いかけたことを回想してみたい。

 Earl Warren の首席裁判官としての最高裁入りは、公立学校の人種分離を扱ったブラウン事件審理の途中で前任のVinson首席裁判官が急逝するという、予想外の出来事の結果発生した全くの偶然事であった。しかしその後のアメリカ社会は、彼が在席した16年間の最高裁判所が成し遂げた業績を見て、この新しいリーダーの登場が見えざる必然の糸につながれていたものだと感ずるようになるのである。Warren が就任と同時に最初に直面した難事件は前任者から引き継いだ前述のブラウン事件であった。公立学校における人種分離政策を合法としていた南部のいくつかの州の政策の合憲性については、当時の最高裁はこの政策の違憲、合憲をめぐって4対4に割れていた。従って世間は、新任の長官がどちらかの立場に賛成することによって5対4という形の判決が下されるであろうと予測していた。しかし54年に下された最高裁判決は、全員一致によって人種分離を違憲とするものであった。この全員一致の判決形成がどのようにして達成されたかは、新任長官の指導力と人柄を描いたドラマ“Separate but Equal”がよく物語っているところである。このブラウン判決は、南北戦争後のアメリカ社会が採択した根本原則(修正14条「法の平等保護」)を90年近く経た後に現実の問題に適用したものであり、これが契機となってその後のアメリカ社会における人種問題の解決に弾みがついたのである。

 南北戦争後90年近くたっても解決できなかった難問をこの判決が解決したことを考えると、これだけでもウォーレン・コートを回顧させるに十分な理由はある。しかし今日まで繰り返し回顧される理由は、もっと基本的な問題の提起にあると言えよう。それは、1868年に国民が採択した修正14条の平等原則が何を意味していたのかを、現実の社会状況との関係で国民に考えさせる契機を与えたことである。平等原則に関するウォーレン・コートの立場が最もよく示されている判例は、一人一票の原則(One Person, One Vote)を宣言したいわゆる「議席再配分」に関する一連の判決と言ってよい。Warren 自身も引退後、就任中に下した判断の中でもっとも重要なものは何であったかという問に対してこの選挙に関する諸判例を挙げている。ここで述べられた一人一票の原則というのは、まず、一人一人の人は市民であるというだけで一票の投票権を行使できるということであり、また、その一票は政治過程に与える影響においても同じでなければならないという投票価値の平等をも含むという考え方であった。この一人一票の原則は、今日、一般的に民主主義を説明するとき当然の事のように語られるであろうが、一つの社会の中で一定の問題を決定するときにその社会の構成員でさえあれば無条件に一票を投ずるという形で誰でも自分の意思を表明できるという考え方は、それ程簡単に受け入れられるものではなかったのである。なぜなら、この原則が認められる前提としてはまず、人種、性別、所得、年齢、教育というような個々人が持っている様々な違いを投票権の行使との関係では考慮に入れないという考え方が存在していなければならないからである。このような考え方は、アメリカの独立時から南北戦争を経て伝えられてきた思想の流れの中に存在はしてきたが、多数者の意思ではなかった。ウォーレン・コートは、継承されてはきたが細々としたものであったこの考え方を、憲法ルールであるとして具体的社会問題に適用するとどのような結果になるかということを示そうとしたのである。

 アメリカは建国以来、「自由と平等」という理念を追求してきた。自由の理念は個人の可能性を限りなく追求していくことを認め尊重するもので、それは社会に一つの活気を与え個人にも活力を与えることになる。しかし結果として、いろいろな意味での差異、すなわち貧富の差、社会的地位の差などが生まれてくるのである。他方、平等の理念は基本的には自由の原則から出て来る様々な違いを考慮に入れず、社会生活のいろいろな場面で個人を同じに扱うという考え方である。ウォーレン・コートはこの考え方を選挙権との関係で示すと共に、他の領域への適用の可能性を探ろうとした。しかし、この平等の視点は自由を制限することによってのみ可能となるため、当時、他の領域にこれを適用するところまではいかなかった。

 その後の裁判所は、むしろこの考え方の適用領域を限定することによって自由の理念をより尊重するという方向をたどってきた。それでもなお平等の理念が自由の自由の追求過程の中で繰り返し登場してくることになるのは、平等の理念には、現実の人間の欲望や個人的価値観を超えた視点、言い換えれば、あるべき人間の姿を求める視点が含まれているからである。ウォーレン・コートへの回顧が繰り返されるのは、この法廷が行った具体的事件の解決を確認するためではなく、この法廷が事件解決を通して問いかけた平等・正義という、より大きな問題を考えるためであると言えよう。従って、ウォーレン・コートを繰り返し振り返るというアメリカ社会の現象は、新しい世紀を迎えても続いていくことになるであろう。          

(同志社大学法学部教授・大学院アメリカ研究科長)