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             文学の中のアメリカ生活誌(20)               

 Cleanliness(清潔)18世紀のアメリカを代表する文人である Benjamin Franklin はAutobiography (1791) のなかで、自己改善するための13の徳目をかかげている。彼はその10番目の項目をこう書いている。「清潔----身体、衣服、住居の不潔を大目に見るべからず」。彼は身体の清潔は幸福に寄与すると確信していたので、同じ作品のなかで、「貧しい青年にひげ剃りと剃刀の手入れの仕方を教えてやれば、1,000ギニーを与えるより彼の幸福にはるかに寄与する」といいきっている。彼にとって身体を清潔にすることは、同時に自からのまわりに清潔さを確保することでもあった。彼の故郷の町フィラデルフィアは、18世紀にはアメリカ最大の都市になっていたが、その広い通りは、舗装されていなかったので、雨天にはすぐぬかるみになってしまい、人々は市場へ行くのにも泥はねによって衣服は汚れてしまったし、逆に好天気の日には舞い上がる埃に悩まされていたからだ。加えて道路のあちこちには家庭のごみがいっぱいで悪臭がただよっていた。かくして Franklinは泥と埃と生ごみの悪臭から通行人を守るために、街路舗装を目的とする法律を州議会に提出し、路上のごみを掃き清める清掃人の採用を提案した。だが、彼が熱心に身体衛生を社会的規模にまで拡大しようと努めたにもかかわらず、フィラデルフィアの大多数の人には不潔は悪だという認識はまだなかった。いいかえると、当時のフィラデルフィアでは、汚れた体で悪臭をはなっているという理由で疎まれることはなかった。

 ニューヨークの姿も19世紀の半ばにいたるまでは今日から見るとぞっとするほどひどかった。大部分の通りは、投げすてられた生ごみや汚物や犬、猫の死骸の山が放置されていた。こうした生ごみを掃除したのが町の貧しい人々が飼っていた豚だった。1841年、夫人と共にアメリカを訪れたイギリス人作家 Charles Dickensはニューヨークの通りをうろつき回る豚たちに嫌悪を示したが、American Notes (1842) のなかでは寛容に受けとめている。こうしたなか作家Harriet Beecher Stoweの妹Catharine Beecher は、A Treatise on Domestic Economy, for the Use of Young Ladies at Home and at School (1841)の中で、清潔さは心地良い家庭を築く重要な要素であると提唱した。同時代のSylbester GrahamやWilliam Alcottは、身体衛生の習慣が身体を病害から護る最適な方法であることを力説した。だが人々の衛生意識に一大転換が起き、身体の汚れや彼等を囲む環境の不潔さが否定されるようになるのは、コレラの慢性的な流行(1832、1849、1866)で多数の死亡者がでる南北戦争後になってからだ。ニューヨークを例にとると、1866 年に流行したコレラで死者が600人にのぼった。医師や衛生改革者が身体の汚れやそれまでごく平然とつきあっていた悪臭の街路とコレラの関係を明らかにしたのがきっかけになり、市は壮大な市民清潔化計画の実施に本格的に取り組むことになった。とりわけ、上下水道路が普及していない貧民窟に押し込まれた新移民のあいだに広まっていた伝染病や梅毒に対するニューヨーク市民の恐怖は大きかったので、彼等を清潔にすることが最重要課題となった。文人 Eleanor RooseveltのCousine Susieのなかには主人公スージーが集団的な不潔恐怖症から19歳の妹エレナーに隣保事業を即刻やめるように頼むシーンがある。かくして、19世紀後半から流入しはじめた新移民は、新天地で生きのびるためには言語能力とともに身体的清潔さを身につけなければならなかった。

Ice cream(アイスクリーム)1777年5月12日、Gazetteというニューヨークの土地の新聞は、アメリカではじめてアイスクリームに関する次のような記事を載せた。「イタリア人菓子屋P. Lenzi のところではアイスクリームがほぼ毎日売られています」。1800年にはアイスクリームについての広告があらわれた。広告主はフィラデルフィアのイタリア人菓子屋Bosioだった。アメリカにおける初期のアイスクリームの歴史に多くのイタリア人があらわれることから推して、アイスクリームをアメリカに最初に伝えたのはイタリア人であったようだ。

 しかし、建国の父たちがこの珍味を知ったのはイタリア人でなく、フランス人からである。1782年、初代大統領 George Washingtonはフランスの議員たちが催した晩餐会で初めてアイスクリームを味わった。彼はこの味が忘れられず、その2年後、フィラデルフィアで1ドル13シリング4ペンスのアイスクリーム製造機を購入した。もっともこの製造機がどのようなものであったかは定かでない。この頃のニューヨークの ice cream house (アイスクリーム屋、1870年代後半になると ice cream palours , ice cream stand と呼ぶようになった)の記録によると、Washington は1790年の一夏だけでアイスクリームに200ドルも使った。第3代大統領 Thomas Jeffersonも、フランスからアイスクリーム製造機を持ち帰るほどアイスクリームを好んだ。面白いエピソードは第4代大統領James Madisonの夫人 Dolleyだ。夫の大統領就任晩餐会の際、彼女は招待した名士たちに良い印象与えたくて、いろいろな食べ物を盛ったテーブルの中央の銀皿にピンクに輝く大きなアイスクリームの山を置かせた。その見事さに列席した人々は目をみはったことはいうまでもない。当時はアイスクリームを作るには高価な氷が必要だったので、金持ちだけしかアイスクリームを味わえなかった。 

 1846年、N. Johnsonが家庭用 ice cream freezer(アイスクリーム作り機)を発明した。これによってそれまでクリームをスプーンでたたいて固め、それを氷と塩がはいっている容器に入れ、固くなるまで長い間手でかき回してつくっていたアイスクリームは、手軽に家庭でもつくれるようになり、急速に庶民の間に広がっていった。1850年代の主婦たちにとって一種の料理書のバイブルだったGodey's Lady 's Book には、アイスクリームは生活必需品のようなものとこう書かれている。「アイスクリームのないパーティーは、パンのない朝食か、焼き肉のない夕食といったようなものです」。この頃の偉大な思想家 Ralph Waldo Emersonはそうした風潮を苦々しく感じ、「我々は、家が友達に心地よい印象を与えるところになるよう頭を使おうとしない。だからアイスクリームが売れるのだ」と述べた。 1850年代になると、アイスクリームはビッグ・ビジネスになった。アイスクリームの需要の高まりを背景に1851年、ボルチモアに住むミルク業者の J. Fussel は、アメリカで最初のアイスクリーム工場の製造と卸売りを始めた。そして1870年には、何種類の味と香りのアイスクリームや段々に重ねたアイスクリームを考案し、発売した。作家 Loisa May AlcottのLittle Women(1876)にはアイスクリームが当時の人々に非常に好まれていた様子がこう書かれている。「アイスクリームは『おお!』とか『ああ!』とかいう満足の声といっしょに、みんなの口のなかへ消えていった」。                              

(新井正一郎)