Controversy

「文化戦争」に見るアメリカ史 (2)─ 論争陣営の再編成

ハンターの描く近年の論争の様相

 宗教の社会学を研究するデイビッド・ハンターの研究は、過去10年の米国における様々な激しい論争を読み説く有用な手がかりを与えてくれる。彼はまず、ヨーロッパからやってきた彼の友人の観察を紹介する。つまり、アメリカでは、人工中絶、同性愛者の権利、芸術への財政援助、政教分離を巡る訴訟、多元文化主義などの問題が新聞紙上を賑わし、家庭や職場でも熱心に議論が闘わされてはいるが、こうした文化の理解に関わる議論がアメリカ人にとってどれほど実生活面で関係があるのだろうかと友人は尋ねる。[David Hunter, Culture Wars: The Struggle to Define America: Making Sense of the Battles over the Family, Art, Education, Law, and Politics (New York: Basic Books, 1991), xi.]

 しかし、とハンターは答える。これらの問題が抽象的なものにすぎないと感じられるのは、自分の生活がこれらの問題と交差するまでであろうと。たとえば、自分の娘や友人が人工中絶を望む。いとこが同性愛者であると世間に宣言する。自分の子供が公立学校で自分の信念に反する価値観を教えられる。地元の美術館で展示作品の検閲が行われる。地元で反戦運動が行われ国旗が焼かれる。この様なとき多くのアメリカ人にとって抽象的な問題ががぜん現実味を帯び、たちまち自分の生活と直接の関わりを持つようになる。[Ibid.]

 ハンターは次に、これらの「現実的な」諸問題に深く関わる人々を紹介する。ここで登場するのは、同性愛者が「パートナー」として生活を共にする法的権利を認める法案に反対する長老派教会の牧師。彼はこの問題で、福音派のプロテスタント、ローマ・カトリック教徒、ペンテコステ派の黒人信者、およびサンフランシスコの年輩の市民と共闘している。[Ibid., 3-4.]

 この法案の成立を目指して運動している敬虔なカトリック教徒も登場する。それも大人になってから改宗した筋金入りの教徒である。しかも、カトリック教会は同性愛には反対している。彼がカトリックに改宗したのは一つには、カトリックが聖書無謬説(神の言葉としての聖書は信仰上の事柄についても、科学的にも誤りは絶対に無いとする考え)にとらわれていないためである。また、カトリック教会は普遍的教会であると考えているため彼は、カトリックがプロテスタントよりも標準からの逸脱や異質性に寛容であると信じている。[Ibid., 10.]

 ハンターはまた、ニューヨーク・マンハッタンの人工中絶診療所で行われる人工中絶を丸一日妨害するためにピケを張った何百人という人々を取り上げる。この日の実力行使では800人が逮捕されたが、その中に4人のラビ(ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグの主管者。通例、専門機関で特別な教育を受けて聖職に就き、ユダヤ教・ユダヤ人社会の宗教的指導者として教会や教育などの仕事に従事する)、福音派プロテスタントの数人の牧師、そしてローマ・カトリックの指導者6人が含まれていた。[Ibid., 12-13.]

 このエピソードを紹介した後、ハンターは、キリスト教徒と共闘するユダヤ教徒を取り上げる。ラビの語る伝説によれば、御者が教会の前を通るとき十字を切るかどうかよく見ておかなければならないと言う。十字を切るのはユダヤ教徒の行為ではないけれども、宗教的感情を表す行為を示す御者が運転する馬車ならユダヤ人が安全だというのである。同様に、世俗的な社会には、強姦者や強盗や家庭を破壊する人間がいるものだ。伝統的なユダヤ人は道徳規準を守るキリスト教牧師・指導者層の積極的努力を評価していると、伝説は述べる。[Ibid., 17.]

既成概念の変更

 ハンターの描く論争の当事者たちの言動・運動は、我々の既成概念に変更を迫っているように見える。ここでは、カトリック教徒が必ずしも常に人工中絶に反対するわけではなく、また伝統的ユダヤ人が、世俗主義を唱える無宗教者よりは保守的キリスト教信者の方を信頼する事例が取り上げられている。ハンターの主張の中心はまさにこの点にある。今日の論争の要点は、究極的には道徳的権威の問題、つまり善悪、正邪、容認可能か不可能かを判断する基準の問題に行き着く。そしてこの判断基準が論争の両側で決定的に食い違っている。「その溝は非常に深く、昔から論争の陣営を分けてきた線引きが通用しなくなっており、プロテスタント、カトリック、ユダヤといった長い間アメリカ人を分割してきた意見の区別が世の中の現実に合わなくなっている。」[Ibid., 42-43.]

 この点に関しては19世紀後半、頑強なプロテスタントであるドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが自分が作り上げたばかりの帝国内で、ローマ・カトリック教会の勢力を国家の管理下におこうとした事から始まった Kulturkampf (文化闘争)が想起される。1871年から約16年間続いたこの闘争は、基本的にはプロテスタント対カトリックという枠組みで闘われた。ハンター自身はこの闘争に触れていないが、 Kulturkampf はハンターの言う「文化戦争」のひとつの重要な前例であろう。しかし、ハンターの描く現代アメリカの「文化戦争」はもはや宗派同士の対立という枠組みでは捉えられていない。[Kulturkampf については、そのドイツ史学上の重要性と合わせて、本学会の前会長・現顧問の山口房司先生にご指摘いただいた。]

新たな連合の枠組み:「正統派」対「革新派」

 では、現代アメリカの現実の論争陣営はどうなっているのか。ハンターによると、それは「正統派(The Orthodox)」と「革新派(The Progressive)」であると言う。この論争は道徳的基準の争いであるので、どちらの側も自分がアメリカの伝統における「正統」と考えているが、「正統派」陣営は、「外的な、定義可能な、超越的権威」を拠り所としている。この中には、アメリカの「伝統的価値観」が含まれる。一方、「革新派」陣営にとっての道徳的権威は、時代の精神、つまり合理性と主観主義の精神に規定されるものであって、彼らに見られる傾向は、「現代生活に広く存在する観念に従って歴史的信念の意味を更新する」ことである。たとえば、聖書の記述も現代生活の実状に合わせて解釈する。[Ibid., 43-45.] したがって両陣営の論争は、ハンターの著書の副題にあるとおりまさに、「アメリカをどう定義するかという闘争」である。これをハンターは「文化戦争」と呼ぶ。

 彼は近年の論争を伝統的・絶対的価値観の維持を重視する「正統派」対相対的価値観に基づき時代にあった価値観の創設を主張する「革新派」の争いと規定している。近年の論争をこの様に見ることによって、それをアメリカ史の文脈に置くことが容易になり、その特徴が比較的容易に把握できるという点で、筆者はハンター説が今後有益な分析概念になりうると感じる。

「絶対的価値観」対「相対的価値観」、あるいは「客観性」に対する挑戦

 簡潔に表現すればハンター説は、「絶対的な価値観」対「現状に合わせた価値観」の対立と規定することも可能である。そのように表現すると、これは史学にとっての最大の、そしてきわめてやっかいな問題、「客観性」を巡る問題と同じ性質を持つことが分かる。極めて単純化して述べると、19世紀末に確立され、1950年代に再び脚光を浴びた歴史の「客観性」という思想が、1960年代に入って様々な方面から攻撃され、現在の史学は細分化・分断化の傾向を加えて、混沌とした状態にある。

 筆者は前回の連載で、この問題の最近の代表的文献としてピーター・ノービックの著作を少し詳しく紹介したが、「客観性」の問題は史学にとっては非常に重要で、異なるサブフィールドを扱った同様の研究がある。たとえば、アメリカ法の分野では、モートン・ホーウィッツ(Morton J. Horwitz)が The Transformation of American Law, 1870-1960: The Crisis of Legal Orthodoxy (New York: Oxford University Press, 1992) を書いている。この著は、The Transformation of American Law, 1780-1860 (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1977) の続編という形を取ってはいるが、まったく性質の違う著作である。1977年の著書は、膨大な数の判例を検討して、書名の通り「アメリカ法の変遷」を描く大作となっている。

 しかし、南北戦争後の時代にはいると、判例の数も飛躍的に増加して前作と同じ事を続編では出来なかったと思われる。そのかわり、ホーウィッツはアメリカ法についての考え方、つまり法 理 学の変遷を書いた。その主旨は、1870年から1905年にかけて米国の法曹界では、いわゆる古典的法思想というものが社会の趨勢を法理学に取り入れる「革新派」によって重大な挑戦を受けたというものである。つまり、著書の焦点は「古典的法思想の危機」という副題の方にある。

 また、前回紹介したトーマス・クーンの著作は、そもそも科学の「客観性」に対する最初の強力な挑戦であった。クーン以後、科学を社会学的に強く影響された存在と見る見解が広がり、今日の科学史、科学哲学が産み出され、そして科学の「客観性」という思想が揺らいでいるのである。(これに対する巻き返しは、前回紹介したとおりである。)

 ハンターの著作も「客観性」を巡る闘いというその大きな流れを、アメリカ人の現代生活に関わる論争に焦点を当てて描いたものと見ることができる。この点に筆者は、近年の激しい論争、つまり「文化戦争」を研究・分析することの史学史的意味を見る。この連載では、様々な現象を拾い集めて、演繹的にそれらを貫く原則・法則をうち立てると言うよりは、ハンター説を利用して、諸現象を分析しハンター説の有効性を検証しつつ、アメリカ史に見られる特徴を論じてみる。

 しかし、そうする前に、ハンター説に対する批判も視野に入れておかねばならない。批判の内容を分析してハンターの「文化戦争」説をより現実に即したものに部分的に修正し、それにより、我々は近年の論争を史学史的に読み解くためのいっそう有効な分析ツールを手にすることができる。それは次号で行いたい。

(山倉 明弘)