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茶 の 湯 と ア メ リ カ

                       千 宗 室

 日本の伝統文化茶道に関心を抱き、社会的に又は日常の生活の中に裏千家茶道をたしなんでいる人々は、現在世界三十二ケ国九十六ケ所に出張所、支部、同好会の形で存在している。昭和初め頃は第二次世界大戦直後で当然のこと乍らその数字は低いものになってしまっていた。1951年に私が初めてアメリカの地、ハワイ、シアトル、サンフランシスコ、ニューヨークに茶道普及の旅に出た時から現在迄の四十八年間の結果が冒頭の数字である。

 世界茶道普及の第一歩はアメリカから始まった。世界に茶道、日本の精神を布教しようという私のライフワークとなったそのきっかけは一つならずアメリカにあった。

 終戦直後、海軍航空隊の生き残りとして京都の生家に戻った時、その茶室に父十四代家元が占領軍であるアメリカの将校の長い足を折って座らせ、一服のお茶を供している姿があった。戦勝国のアメリカが、敗戦国の日本の伝統文化を受け入れようとしてる姿が、戦いには負けたが文化ではアメリカのみならず世界と対等につき合い、むしろリードすることができると私に感じさせた。アメリカ人気質の大らかな明るさ、こだわりのない素直さが私に大きな希みを与えてくれた。更にこのことに拍車をかけることがあった。米第六軍司令官ダイク代将の早稲田大学に於ける講演である。「アメリカに学ばなくても、日本にもすばらしい民主主義がある。茶道である。身分の上下なく一碗の茶を飲む。“和敬清寂”の精神こそ民主主義の根本である。」この言葉に感激した私は決心を固め、1951年パスポートのない時代にマッカーサー司令部よりの証明証をもって単身でアメリカに渡った。そして茶道の布教に入った。一粒の茶の種は直ちに発芽して、支部が結成されたが、この時は主として日系二世、三世のグループであった。

 1953年にサンフランシスコに於いて日米講和条約記念の公の茶道紹介講座・デモンストレーションの依頼を受けた。その時に、世界に禅を拡めた鈴木大拙先生との出会いがあった。また、後年聞いたところによると現宮沢大蔵大臣もフルブライトの留学生として、その場に居合わせたと云う。こうしてアメリカ人一般に対して私の茶道紹介が始まった。

 続いてニューヨークではジャパン・ソサエティの会長であったロックフェラー三世の邸宅に招かれた。当時まだ二十六才の私にとって、ロックフェラーの名前は余りにも大きくその時の緊張が今も思い出される。日本から来たという若い茶人に対して、御夫妻は暖かく丁重なもてなしで迎えてくれた。玄関先迄の出迎え、昼食後の貴人台の上にのせられた一碗のお茶、すべてが茶の心に叶ったものであった。その時にもう少し英語が話せれば良かったのになあとの思いが、後の私の世界に茶道を布教展開する方法を導いてくれた。

 私は世界に茶道を広めるためにはまず英語が話せなければならないと痛感した。茶道は心と心のコミュニケーションである、以心伝心であるとは云っても、初期の段階ではやはり言葉が必要である。日本人の茶道教授者に英語を教えるより、ネイティブ・スピーカーに茶道を修得させ通訳ではない外国籍茶人を戦力にしようと考え、その養成から始めた。私的な奨学生制度を設立し年間十五人迄の外国籍の日本文化研究に関心を抱く学生を招き、一年、二年、三年とフルスカラーシップで研修させることにした。この1960年の終わり頃、アメリカの若者達は物質文明の頂点を極めた繁栄の中にかえって心のむなしさを感じ始めており、そしてアメリカ国家のベトナム戦争への介入はそれに拍車をかけた。「世界のどこかに心の渇きを癒してくれるものがあるのではないか・・・」と当時裏千家の門を叩く者はその殆どがこういったアメリカの若者で、しかも男性であった。「茶はかわきを癒すにとどまる」と言う茶祖千利休の言葉を、かわきが肉体的のどのかわきをのみ述べているのではなく、精神的なかわきを指しているという東洋哲学的表現を、彼等は最初から感じとっていたのである。同時に1970年に大阪に万国博覧会が開催された時に、会場の喧騒をのがれて会場内の茶室で一碗の茶に心の憩いを見出したカナダ、エチオピア、後にデンマーク等のパビリオン関係の若者が、そのアメリカ人に加わったのであった。

 彼等は私が提唱している「道学実」一体の指導方針を理解し、日本人の茶道はお稽古ごとという偏見なしに、道(精神)・学(学識)・実(実技を通じての働き)をバランスよく会得しはじめていた。こうして1979年ニューヨークのジャパン・ソサエティで初の茶の湯展を開催する機会が訪れた。企画したのは二年間私のもとで修行してChanoyu:The Way of Tea の本を出版したランド・キャスティールである。彼がジャパン・ハウス・ギャラリーのディレクターとして国家の援助金(ナショナル・エンダウメント・ファンド)をとりつけて企画したのである。私は道具のみを展示するより、その道具を如何に使うか、茶の湯そのものの紹介と結びつけてはどうかと考えた。私ども伝来の道具に加えて五島美術館と共同で選んだ茶道具百点の展示と共にアメリカ人を中心とした十人の弟子を連れ、三畳のポータブル茶室を送付し、展覧会場に茶室を建て、彼等即ちノン・ジャパニーズの茶人達に茶道紹介を行わせた。この演出は、日本の伝統文化茶道は日本の婦女子のたしなむもので外国人は参加できないものであるという既成概念を完全に打破した。歌舞伎のような舞台芸術ではないことも理解した。お茶はセレモニーではない、自分達もパーティシペイトできるヒューマン・コミュニケーションなのだという新たなる認識がこの時の茶の湯プレゼンテーションとネイティブ茶人の解説で知られることとなった。一期一会(ワン・ミーティング・ワン・オポチュニティー)という観念もこの時から一つの言葉となって外国の人の口にのぼるようになった。この美術展はその後テキサス、ハワイと巡回した。

 こうして茶の湯はアメリカに広まり始めた。1982年にはアメリカ州立のハワイ大学がその七十五周年を記念して初の茶の湯シンポジウム(学術会議)を行った。当時の日本学の権威ジョン・ホール博士を中心に、ハワイ大学歴史学部ディクソン・モリス博士(室町時代専門)カリフォルニア大学ロサンゼルス校のウィリアム・ラフレール教授等が日本の村井康彦、熊倉功夫、羽賀幸四郎などの錚々たる茶道学者と茶の湯の歴史シンポジウムを行ったのである。これをきっかけにカリフォルニア大学バークレー校、ニューヨークのコロンビア大学、又ブラジルのサンパウロ大学でも茶道が日本学研究の対象となった。その後もアメリカ国内の大小様々の大学で茶道を日本理解の足がかりとして、講座に組み入れるところが数を増した。ちなみにアメリカでの主な大学はシアトル・ワシントン大学、ペパダイン大学、イリノイ大学、シートンホール大学、ラ・サール大学、ハーバード大学などである。またアメリカ国内に限っては現在までに二十五の支部・同好会と、ニューヨーク、サンフランシスコ、シアトル、ワシントンDCには直轄の出張所を置いている。1994年には、私どもの直弟子で裏千家ロサンゼルス支部をあづけている松本・スージー・宗静名誉師範が、ヒラリー・クリントン女史よりナショナル・エンダウメント・フェローシップという国家顕彰を受けている。他国(日本)の文化をアメリカのものとしてアメリカに紹介定着させた功績であると云う。アメリカとはそうした大らかさをもった国である。

 今ふりかえってみると、私が茶道を世界に広めるにあたり、まず第一歩がアメリカであり、その普及方法を確固たるものにしてくれたのもアメリカであり、そしてアメリカ英語でありアメリカの人々であったことを思う。

 その後ヨーロッパ、東南アジアが年を追って参加し、ロシア、東ヨーロッパが続き中国、韓国、オーストラリア等大洋州の国が続いているが、常にその原点はアメリカにあり、この初期の方法をもとにして茶の根本理念「和敬」による人と人とのコミュニケーション「一碗からピースフルネスを」のライフワークにいまだ歩み続けているのである。                        (茶道裏千家家元・哲学博士)