Scenery

文学の中のアメリカ生活誌(18)

 

Airplane(飛行機)Wright兄弟がキティーホークで最初の飛行実験を行ってから20年近くたっても、人々はairplane(1910年頃にできた言葉)を危ない乗り物と思っていた。それでも空を飛ぶことは金持ちのイマジネーションをかきたてた。この頃の全木製、上下二葉の主翼を持つ飛行機はbiplane(福葉機)と呼ばれたが、aerial ship や aerial machineという呼び方も通用した。第1次世界戦争の勃発とともに、アメリカは多くの偵察機や戦闘機を必要としたために、パイロットの訓練を含め、全航空機産業は恩恵を受けた。しかし、戦後になるとアメリカ政府は航空機産業になんの援助もしなくなったので、成長し続けていたこの産業は一気に破綻し、パイロットは職を失った。曲芸飛行士となった多くの空の勇士たちは、tailspin(きりもみ降下、1915年の言葉)、loop-the-loop(宙返り、1904年の言葉)などの無鉄砲な芸をやってのけ、観客をあっといわせた。文学作品において第1次大戦の空の英雄が登場する早い例は、John Dos PassosのThe 42nd Parallel (1930)である。

 飛行機を身近かなものにしたのはairline(航空会社、1914年の言葉)による郵便物の運搬であった。1914年、Pan American Airwaysという民間会社が航空郵便の業務を、他社にさきがけて開始した。航空便の運送のために雇われたパイロットは太西洋横断無着陸飛行を成功させたCharles Augustus Lindberghを含め、曲乗り飛行士たちであったが、当初はハプニングの連続であった。1918年、ワシントンからニューヨークに向かう一番機は、パイロットが興奮しすぎてタンクに燃料を一杯にするのを忘れたため、首尾よく離陸できなかった。2度目の離陸はうまくゆき、機は上空に達したが、今度はパイロットが雲で飛行ルートを見失い、やむなくメリーランドに不時着することになった。郵便物は列車でニューヨークまで運ばれたのである。この頃の飛行機はラジオや航法装置などの航行上の補助がなかったので、ニューヨーク―シカゴ路線を例にとると、郵便物の輸送にあたっていた40名のパイロットのうち31名が衝突死した。

 旅客輸送が初めて開始されたのは、1929年にペンシルベニア鉄道との合併でできたTATによるオハイオ―ニューメキシコ―カリフォルニアの定期便である。当時は夜間の飛行が極めて危険であったので、乗客は全行程の3分の2しか飛べなかった。西へ向かう乗客は昼間は飛行機で行き、夜間は列車を使い、夜が明けるとニューメキシコ州クローヴィスで彼等を待ち受けていた別の飛行機に乗り込むのだ。機内サービスは列車のそれを手本にしていたので、パイロットらは冗談半分にTATとは メtake a trainモ(「列車を利用ください」)の略だと言った。この大旅行は快適とはほど遠く、所要日数は2~3日、運賃は160ドルであった。1920年代の終りまでにはウオール街では空の旅は有利な商売になると思われていた。だが、1929年秋に勃発した大不況でTATは営業損益が大幅に悪化し、Western Air Express(現TWAの前身)に身売りをえらばざるを得なくなった。

 Amelia Earhartが女性として初めて大西洋単独横断に成功した翌年の1930年、最初のスチュワーデスが登場した。United Airlines 社はシカゴ―サンフランシスコを運航する機に8名の看護婦を乗務させ、客のサービスにあたらせたのだ。看護婦が採用された理由は、当時の機内は気圧を保つ気圧隔壁がなかったので高度が上がると多くの乗客はすぐ気分がわるくなったからだ。彼女らの仕事はヒステリー病を起こしたり、air sickness(航空機酔い)になった人達を看護することであった。  

Millionaire(百万長者)百万長者に相当する最初のアメリカ人は17世紀のヴァージニアの大農園主 Robert Carter であった。父から受け継いだ30万エーカーという広大な肥沃な土地で育った彼は、早くから1,000人の奴隷を指図する仕事に従事していた。彼の館には28の暖炉と1,500点をこえる蔵書があった。だが、彼は百万長者と呼ばれなかった。理由はmillionaire(フランス語のmillionnaireが語源)という語はまだアメリカになかったからだ。この言葉が記録に初めて現われるのは1850年代になってからだ。1850年代には百万長者はアメリカ全土でわずか1人、つまり毛皮会社の経営者John Jacob Astorだった。21歳の時ドイツからニューヨークへ渡ってきた彼は、Thomas Jeffersonや他の政治家との交友関係を巧みに利用して毛皮取り引きの独占権を手に入れ、やがて全米に設立した1,808の毛皮店より2,000万ドル以上の利益を得るようになった。彼はその巨額の富のほとんどを土地につぎ込み、長らくアメリカの大富豪として知られていた。彼の息子 W. B. Astor はニューヨークに豪邸と700以上の店舗を所有し、ニューヨークの地主と呼ばれた。

 billionaire(億万長者)は1861年にできた言葉である。アメリカの最初の億万長者は石油王 John D. Rockefellerである。1859年秋、オハイオ州のクリーブランドで石油が堀りあてられたニュースを耳にすると、その町で販売代理商の簿記係として働いていた彼は、相棒と共同して黒いドロドロした原油をきれいな油にする製油所を設立し、以後周辺の200を越える石油精製業者を吸収合併したり、製品を輸送するペンシルベニア鉄道のすべての石油車両を買い取ったりするなど、10年もたたないうちに石油精製と輸送の独占権を握った。彼は1937年に亡くなったが、遺産額は当時の国民総生産の65分1に相当する14億ドルであった。

 19世紀前半には、百万長者は全国でわずか1人だったが、19世紀末までには多数の億万長者が現われた。この種の成金王はtycoon(タイクーン)とも呼ばれた。これは中国語の ta kuin(偉大な主君、王子)からの借用語である。Matthew C. Perry 提督が1854 年に軍事力を背景に日本に開国を迫った頃、彼との交渉に当たった幕府の役人は、将軍家定にふさわしい称号として ヤtaikunユ を用いていた。Perryが日本からこの言葉を持ち帰った後、その又借りの言葉はアメリカではLincoln内閣の閣僚や秘書らによってAbraham Lincoln のニックネームとして用いられた。1870年代になると、その言葉は前記の新興成金たちに対する呼び名として使われるようになった。19世紀後半以降、彼等の数が3,800人にふえると、アメリカ古来の平等の夢はかき消されてしまった。代わって H. Spencer やW. Sumner といった社会進化論者によってDarwinの進化論が人間社会に応用され、成功の度合は人間の適性によるとする徹底的個人主義の激しい競争が通用するようになった。成金王たちはアメリカの経済を底あげしことは確かだが、その身勝手な振る舞いは人々の怒りを買った。同時代の作家 O’Henry は Conscience in Art (1908) のなかでわがままなこの種の金持ち連中を無教養で野暮ったく「熱いコーヒー・カップの中の蝿」以外の何者でもないと言い切っている。

(新井正一郎)