Research Paper

アレハンドロ・オルティス(Alejandro Ortiz)のアンデス神話研究 (1) 

 

 南米・ペルーに位置するワロチリ地方が研究として取り上げられるのはそれほど珍しいことではない。マーカム、ヒメネスを先駆者とし、テーヨ、ミランダ、マトス、トゥリンボルン、アルゲダス、ドゥヴィオール、スポールディング、ピースさらにはユリオステ等の研究が続々と発表されてきたのは承知の事実であろう1)。したがってA・オルティスが1980年に出版した小さな本『ワロチリ400年後』は、ややもすると、すでにかなり多く存在するその地方の地域研究のほんの一角を占めるに過ぎないということになってしまうかもしれない。とはいえ、この場合の「ほんの一角」とはあくまでも「量」に関しての言及であって、決して「質」のことについて言おうとしているわけではない。

 ただし、そうは言っても、この著作の貢献をきちんと押さえている研究者はあまり数多くないように思える。その無理解の原因には、出版局の財政上の都合で発行部数が限られ、今なお品切れ状態になっているという流通の問題もあるが、彼の属するペルー・カトリック大学の学者に対し、当時ライバル意識と敵意をむき出しにしていたH・ウルバーノが、オルティスの言葉尻を捉えてかなり些末な批判2)を『アルパンチス』誌で展開し(Urbano 1982)、そのことが真に受けられ、彼の著作を一般の研究者の目から遠ざけてしまったというような残念な事情もある3)。

 こうした原因は実際、書物の中身とは無関係であり、ヘタをすると事情が判らないまま、この研究のもつ価値や方向性が理解されずそのまま忘れ去られてしまう可能性すらある。そこで本稿では、20年近く前に上梓され、今ではほとんど絶版状態になっている著作ではあるが、敢えてそれについての論評を試み、彼の他の著作をも射程に入れ、オルティスのアンデス神話研究の枠組みを明らかにする。そして、その結果を踏まえ当該のテーマに関する今後の研究の指針としたいと考えている。そのためには、何よりもまず、『ワロチリ400年後』について見ておかなければならない。

 もともと、本書の舞台となったワロチリ地方を学術的に有名にしたものは、16世紀末(1598?)にアビラ神父によって記録された『ワロチリの神々と人々』という神話集である。いうなれば、アビラ神父がワロチリ研究の始祖であるが、しかし、その学術的子孫たちは、若干の翻訳や古文書学的研究を除くと、始祖が関心を示した神話に本格的な注意を払ってきたわけではない。むろん、経済・政治・社会・言語といったさまざまなテーマが、プレインカから現在までの歴史的深度で追求され、アンデス地域研究の中でもワロチリ地方が最もよく研究された地域の一つとなっているということを否定することはできないが、しかしながら、そういう輝かしい幾多の地域研究にもかかわらず、神話というもともとの研究テーマがなおざりにされてきたことは、この地域の研究の水準を鑑みてみれば、物足りないものであった。そして、その空隙を埋める研究がまさしくオルティスのこの『ワロチリ400年後』というわけである。

 オルティスによれば、その著作の目的は、以下の事柄を指摘することにあるという。すなわち、著者自らが現在のワロチリ高地で蒐集した神話と16世紀末に記録されたアビラ神父の著作とを比較し4)、400年の隔たりにも拘わらず、「ワロチリの高地の人々が神話を保存したということを明らかにし、流動的な神話にはつきものの変換や変化を指摘しながら、同時にそこで取りあげられる神話群がある特定の構造に忠実であることを示す」(Ortiz 1980 :13)。したがって、本書で展開される議論の理解のために最低限知っておくべき神話群が付録として本の最後に付けられているが、やはり本書を読みこなし、それをワロチリ社会の理解の一助けとするためにはやはり、アビラの原本『ワロチリの神々と人々』を前提として通読しておく必要がある。実際、それを怠れば、読者は16世紀と400年後の現在との差を明確に認識しないまま、言い換えれば、本書の主題を理解することなくそれを読み終えてしまうことになるだけだろう。

 しかし、いまひとつ注意すべきは、本書が、同じ著者の『アダネバからインカリへ』(1973)の続編とも呼べるものであり、その姉妹編は『ワロチリ400年後』の中でも繰り返し引用されているということである。そして、さらに踏み込んだ見方をすれば、両著作は、後述するように、互いに対をなして構成されていると考えられる。それゆえ『ワロチリ400年後』を真に理解するためには『アダネバからインカリへ』を読みこなしておくことが肝要である5)。

 『ワロチリ400年後』と『アダネバからインカリへ』との対の構成とは、前者が、先に述べたように歴史的連続性を提示するものであるのに対し、後者が空間的連続性を問うているということである。事実、両者を注意深く読んだ者は、それらがそれぞれ独立したものであったとしても、相互に補完的であることに気づくはずである。とすれば、ここで、『ワロチリ400年後』に一言コメントを付すためには、わずかばかり回り道にはなるが『アダネバからインカリへ』について若干みておくのが得策であろう(cf.加藤 1984)。

 『アダネバからインカリへ』の究極のメッセージは、オルティス自身がいみじくも述べているように、「未開の思考と科学的思考との区別の曖昧さの指摘」(Ortiz 1973:2)にあった。しかし、彼のより根元的な主張は、そのようなレヴィ=ストロース的問題意識を内に秘めながら神話の構造の「一貫性を見ていくこと」(Ibid.:4)にある。こうした視点が、その続編においても貫かれているとみてもよいが、『アダネバからインカリへ』が、その姉妹編と根本的に異なっているのは、そこで取り扱う神話の種類についてである。前者において、著者は明確に以下のように述べている。神話の構造は「内的なもので、歴史、地理には関係ない」(Ibid.:4)。むろん、この点だけ読んで判断すると、オルティスはその師レヴィ=ストロースと同様に、時間・空間的隔たりを論理の連続性のなかに還元してはばからないようにも見える。しかしオルティスの研究は実際には、それほど味気ないものではないし大雑把でもない。彼はまずもって地域を限定し、そこで分析される神話の素性に拘る。呈示される神話の大部分は、彼自身が集めたものとなっており、しかもそれらはすべてアンデス世界に由来していることからも彼とレヴィ=ストロースとの方法論的乖離は明らかである6)。つまり、オルティスが『アダネバからインカリへ』で探求した事柄は結果として、彼の師が行ったような神話一般に関する本質論的探究ではなく、現代アンデス世界の神話構造の一貫性、神話の構成における「アンデス的なるもの(lo andino)」の追求7)ということになる。言い換えれば、「アダネバ」のテーマから始まり、「正反対の世界」、「富む者と貧しい者」そして最終的に「インカリ」をテーマとする神話群に到達し、その過程で lo andino を見出すわけである。

(続く)(加藤隆浩・三重大学文学部教授)

*本文の註は編集の都合上、次号にまとめて掲載させていただきます。