Controversy

「文化戦争」に見るアメリカ史(1) ─― 論争に明け暮れた10年

 アメリカの代表的史学雑誌『レビューズ・イン・アメリカン・ヒストリー』の創刊25周年記念号の序文は、この4半世紀の米国史学の足跡を振り返り、「過去10年間に我々は激しい国民的論争を目撃した。それは、博物館に通い、学校教育を監視し、ケーブルテレビのヒストリー・チャンネルに目を凝らす一般大衆に、歴史的な出来事をどのように提示するかをめぐる論争であった。こうした状況で歴史家は、過去をどのように理解し、現在の中に過去がどう位置づけられているかを理解する新しい方法を構築するという課題に直面している」と述べている。[Louis P. Masur, メPreface,モ Reviews in American History 26:1 (March 1998), vii.]

 前掲序文の博物館への言及は言うまでもなく、筆者が前号まで1年間連載した「エノラ・ゲイ」論争を指している。この論争では、「エノラ・ゲイ」展示企画を批判する側と擁護する側との接点のあまりの乏しさが特徴的であった。また、「エノラ・ゲイ」論争が激しく闘わされているさなか、もう一つの論争が持ち上がったが、これが序文の言う「学校教育の監視」と関係がある。筆者はこれを、歴史教育で何を教えるべきかという「ナショナル・スタンダード」論争として「エノラ・ゲイ」論争の連載ですでに紹介した。以下に主な論争を列挙してみよう。

 

多元文化主義教育論争

 「ナショナル・スタンダード」論争はまた、アメリカの公教育のあり方にかかわる「多元文化主義教育」論争というより大きな論争の一部と見ることができる。

 全米の大学で「多様性」を強調する声が聞かれそれがカリキュラムに反映されているが、この潮流に対する批判は厳しい。1980年代末から1990年代はじめにかけてベストセラーとなった The Closing of the American Mind (New York: Simon & Schuster, 1987) では著書のアラン・ブルームが、偉大な西洋文明の伝統を軽視するキャンパスでは、様々なマイノリティーに配慮する学者たちがそれぞれに小さな派閥を組み、お互いに話も通じなくなってアメリカ人の精神を閉塞させていると批判した。1990年12月、『ニューズウィーク』誌は、人種的、性的、思想的マイノリティーへの配慮に対して「人種、性、思想について論じるのに『政治的に正しい』方法というものがある。これは新たな啓蒙主義なのか、それとも新たなマッカーシズムなのか」という疑問を掲げ、「思想警察」というタイトルの特集を組んだ。[Newsweek, 24 December 1990.]

 一方、歴史家ヘーゼル・カービイは、現在の多元文化主義教育は、人種統合政策の失敗とアフリカ系アメリカ人学生の減少を覆い隠すレトリックに堕しているとして、多元文化主義教育を推進している左派およびリベラル派の不徹底さと偽善性を攻撃している。[Harvey V. Carby, メThe Multicultural Wars,モ Radical History Review 54 (Fall 1992).]このように多元主義教育論争のスペクトラムは両極化している。

 

英語公用語論争

 多元文化主義教育との関連で忘れてならないのは、最近の英語公用語化法案をめぐる運動・論争である。米国では1986年のカリフォルニア州での住民投票による英語公用語法案可決に始まり、1997年までに23州で同様の法案が成立しているという。[吉川敏博「アメリカの多言語主義と英語公用語論争」『アメリカス研究』第3号、1997年、264頁。]

 一方で、もともとスペイン語を母語とする住民の居住地だった南西部では、スペイン語使用の基盤が米国の統治により衰退するどころかますます強固になっている。南西部の小さな町、特にメキシコとの国境近くの町を訪れた旅行者は、町で見かける人々のほとんどがメキシコ系であり、市役所でさえ職員同士がスペイン語で話するのが珍しくないことを知るであろう。

 かなりの数のスペイン語使用者が居住するニューメキシコ州では2ヶ国語主義は州憲法で保証されていて、住民は何人たりとも英語またはスペイン語の読み書きが出来ないことで市民としての権利が侵害されないことになっている。また公立学校の教師には英語・スペインの両方に堪能であることが義務づけられている。[Goerge M. Frederickson, メAmericaユs Diversity in Comparative Perspective,モ The Journal of American History, December 1998, 865.]このように、2ヶ国語教育に反対する勢力が立法手段に訴えて成功を収めつつある反面、地域によっては2ヶ国語使用は法的に、また実生活面でますます強固になりつつある。

 

進化論対創造科学論争

 教育分野で注目すべきもう一つの激しい論争は、進化論対創造科学論争である。1925年の「テネシー対トーマス・スコープス事件」、いわゆる進化論裁判に端を発するこの論争は、テネシー州のある議員が公立学校で聖書の創世記にある記述と矛盾する進化論を教えることを犯罪と規定する法案を提出し、これが可決されたことから始まった。[スコープス裁判についての最良の研究はたぶん、Edward Larson, Summer for the Gods: The Scopes Trial and Americaユs Continuing Debate over Science and Religion (New York: Basic Books, 1997) であろう。]裁判の終了後、進化論論争は沈静化するように思われた。

 しかし、1980年代に入ってから、人類は「創世記」に記されたとおりに創造され、低位の動物から進化したという考えは一つの仮説に過ぎないと主張する創造科学が勢いを得ている。1986年に『クロニクル・オブ・ハイアー・エデュケーション』誌が3つの州で行った調査によると、半数以上の大学学部生が創造論、幽霊の存在、死者とのコミュニケーションを信じていると答えた。種々の世論調査では、進化論を教えるなら、創造論にも同様の機会を与える、つまり進化論教育に割くのと同等の時間を創造論にも割くべきだという「平等時間」原則論に与する意見が目立つという。この際、創造論者の主張には地球は平らだという主張も含まれていることを忘れてはならない。[Tim M. Berra, Evolution and the Myth of Creationism: A Basic Guide to the Facts in the Evolution Debate (Stanford, CA: Stanford University Press, 1990), 121-122.]論争は、参加する人々の倫理観・宗教観を巻き込み、両陣営の間に妥協が成立する余地は極めて少ないように見える。

 

サイエンス・ウォー

 進化論対創造科学の論争は科学をめぐる社会的な論争であるが、科学そのものもまた、論争に巻き込まれている。1962年にトーマス・クーンが『科学革命の構造』を発表して以来、それまで客観性・絶対的真実の牙城と考えられてきた科学に対し、科学者の営みそのものが実は極めて社会学的に強く影響されているという主張がなされている。クーン以降の様々な科学批判に対し、科学者ではない人々に、さんざんけちを付けられたと考えた科学者が1990年代に入って猛然と反撃するようになっているが、その激しさは1990年代半ばを過ぎて新たな段階を迎えている。

 1997年、アラン・ソーカルという物理学者が、ポストモダニズム的論調で科学批判の論文を書き、その中に最新の科学理論を引用した。その際に彼は、最新理論に精通している科学者でなければまず見抜けないような小さな誤りをいくつかわざと挿入しておいて、その詐欺論文を科学批判の牙城とも言える『ソーシャル・テクスト』誌に投稿した。詐欺論文はまんまと審査をくぐり抜けて掲載されたが、ソーカルはその1週間後に論文がパロディーであることを暴露したのである。ここにいたって論争は深刻な段階を迎えたが、この状態を「サイエンス・ウォーズ」という言葉で表現する研究者もいる。[『現代思想』1998年11月号の「サイエンス・ウォーズ」特集参照。またソーカル事件の詳細は、金森修「サイエンス・ウォーズ」『現代思想』1998年8月号参照。]

 両陣営の対立・論争はこれ以降、特に激しさを増している。このソーカル事件に関して科学哲学者野家啓一は、科学史家、科学哲学者、科学社会学者と呼ばれる人々と自然科学者との間の「相互不信と相互蔑視はというものがアメリカではこれ程までに強いのかという一種の驚き」を感じると述べている。[『現代思想』1998年11月号、36頁。]

 

人工中絶論争

 論争の中には、巻き込まれた人が実際に命を落としている例もある。

 人工中絶の問題はそれこそアメリカ建国以前から存在するが、これが論争の種となったのはおそらく1973年の「ロウ対ウェイド事件」以降であろう。人工中絶を禁じたテキサス州法を違憲として退けた最高裁の判決によって、それ以前からすでに「慎重に対処すべき、感情的になりがちな」(ブラックマン判事による判決文)問題であった人工中絶は、判決によって決着が付くどころか、ちまたの論争・対立をさらに激化させることになった。

 1997年以来、人工中絶阻止を目的とした放火や爆破事件が目立つようになっており、1998年10月には、人工中絶を行うクリニックの医師が人工中絶反対運動家によって自宅前で射殺された。彼は中絶反対運動の7人目の犠牲者である。『ニューズウィーク』誌は、この状態を「人工中絶戦争」と呼び、放火、爆破、射殺の場所を示した「拡大する一方の人工中絶戦場」というアメリカの地図を掲載した。[Newsweek, 9 November 1998, 26-27.]「女性の選択の権利」対「胎児の生きる権利」の論争が、生きている人の命を奪っている。まさにこれは、論争の域を超えて「戦争」と呼ぶにふさわしいのかも知れない。

 

「文化戦争」という概念的枠組み

 過去10年間に激しさを増した論争はこれらだけに限らない。アファーマティブ・アクション(積極的差別解消策)論争やPC(マイノリティーに対する配慮を重視するいわゆる「政治的正しさ」)論争などは、負けず劣らず激しく闘わされている。これらの論争はまた、1980年代以降、特に90年代にその激しさを増した問題であるが、その起源は80年代、90代のはるか以前に遡るぼる。

 アメリカ国内に様々な摩擦や亀裂をもたらしているこれほど激しい論争が、これほど数多く存在するという事実を目にするとき、これらの論争が歴史的分析を要求しているといっても大げさではなかろう。こうした様々な論争を分析しようとするとき、筆者は今の所もっとも有力な概念的枠組みを提示しているのは宗教の社会学を研究するデイビッド・ハンターであると思う。彼が1987年に発表した Culture Wars: The Struggle to Define America は、いくつか不満足な点があり、その為に批判されているものの極めて有効な分析ツールを提供している。その詳細は次号で紹介することにする。                                   

(山倉 明弘)