文学の中のアメリカ生活誌(15)

 

Niagara Falls(ナイアガラ瀑布) Waterfall(滝)とその省略語fallは14世紀から英語にあった。Christopher Columbus がアメリカ大陸を発見してから50年後、ヨーロッパの探検家たちは新大陸の奥に爆音をたてて落下する巨大な滝があることを耳にしはじめた。1603年、Samuel de Champlain はインデイアンから巨大な滝を聞くと、地図にwaterfallの印をつけた。ナイアガラ瀑布を初めて見たヨーロッパ人はフランス人宣教師Louis Hennepinで、その著Description de la Loisiane (1678)には「滝の近くに立ち、見下ろすと、恐怖で動けなくなる」と書かれている。彼は「大きな恐ろしい滝」、「恐ろしい深淵」といった読者に恐怖の念を起こさせる形容詞を盛んに使って滝を描写したばかりなく、1679年の改訂版ではそれを実際よりも3倍の高さに記したので、ヨーロッパ人には新世界は長らく恐ろしい国、暗い、深い森でおおわれた気味の悪い土地に映った。恐ろしい滝というナイアガラの評判をさらに広めたのは、1751年に英語訳で出版されたスウェーデンの生物学者Pehr Kalmの旅行記であった。彼は「それ(ナイアガラ)を見ればかならずおびえてしまう」と報告した。

Michel Guuillaume Jean de Crevecoeurという7年戦争 (1756~1763) 後からニューヨークに住み、フランス領事として働くかたわらアメリカ各地を旅行し、その報告を残したフランス人は、1783年7月、2人の友人と一緒にナイアガラの滝を見に行った。彼等は崖に突き出た樹木にくくりつけたロープで150フィート下の滝つぼに降りていった(ことによったら彼等はアメリカ滝の裏側に入った最初の人たちであったかもしれない)。Crevecoeurはその時の印象を最上級でこう述べている。「ここにはいままで見たこともない恐ろしい光景があった」。

最初、17世紀には、月のように遠くて遥かな存在で、恐怖以外の何ものでもなかったナイアガラ瀑布は、国内道路網が整備され、旅の所要時間が大幅に短縮された1830年代に入ると、観光のまなざしを向けられる美しい場所として機能するようになった。それは時には死の願望と結びつき、その美しさを強めた。ナイアガラ瀑布に最初に賛美の念を表わしたのは大衆作家Lydia Sigourneyであった。Uncle Tomユs Cabinを書いた 作家Hariet Beecher Stoweは1834年にナイアガラを見た時「大きいというより美しい滝です」といって歓喜し、次のように記した。「滝と一緒に上空を飛んでいるような気がしました。そうすれば美しい死を遂げることになるでしょう。少しも恐怖はないのです」。作家Nathaniel Hawthorneは、若い頃に見たこの滝の迫力のすごさについて「水しぶきと怒涛と目がくらむ断崖と空から崩れ落ちる大海原の光景は、頭からはなれなかった。. . . ナイガラ瀑布は世界の驚異だ」と書き記している。1842年4月の寒い朝にこの地を訪れたイギリスの文豪 Charles Dickens は、百尺一歩竿頭進めてナイアガラ瀑布を「神が創り出した奇蹟、霊なる存在」と述べた。1859年、小柄なフランス人興業師Jean Francois Cravelet(芸名Charles Blondin)は、ナイアガラ瀑布の滝つぼから160フィートの高さに張った200フィートの tight ropes (張り綱)を小またに歩いたり、とんぼ返りをして渡り、多くの見物客を仰天させた。この時からナイアガラ瀑布は新婚旅行のメッカとして最も好まれる場所となっている。19世紀後半に活躍したWilliam Dean Howells はナイアガラ瀑布へ新

 

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婚旅行に出かけた私生活の一コマを題材にして最初の小説Their Wedding Journey (1874)を描いたのだ。                    

 

Sewing machine(ミシン) アメリカ初のミシンは1846年、ボストン生まれの貧しい農民の子 Elias Howe によって考案された。Howeの機械は画期的であったが、アメリカの仕立屋は仕事の脅威になると不安を抱き、誰もそれを衣類や靴の製造に使おうとはしなかった。落胆した彼はイギリスに渡った。工業の発達しているイギリスへ行けば、自分の画期的な発明は注目を浴びるだろうと思ったからだ。だが、現実は厳しかった。彼は無一文になり、帰りの渡航費を得るために2年間商人の店で働かなければならなかった。帰国した彼が驚いたことに、 Issac Singer という若者が彼の留守の間に、改良型のミシンを製作し、特許をとり、大儲けしていた。Howeは自分の特許権を守るために、訴訟にふみきった。長期にわたる紛争の結果、法廷はHowe側勝訴を認める判決を言い渡し、Singer はミシン1台につき相当な額の特許使用料を支払うことになった。新聞はこの経済界の事件を派手に取り上げたので、ミシンは大衆の関心を呼び起こす結果になった。Singer は発明家であるだけでなく、優れた事業家でもあった。彼は1,500ドルの特許使用料を払わされたが、その後ミシン1台につき、25ドルの使用料を払う契約でシンガー・ミシンを生産した。彼はその後もたえず改良を加え、1879年までには国内の総販売台数に占めるシンガー・ミシンの割合は4分の3までになった。1880年代のシンガー社のパンフレットはこの機械を「全世界の女性の必需品」と書いていた。作家Frank NorrisのOctopus (1901) には、Annixterと新妻が新婚旅行先の百貨店で新居の調度品を買い求めるシーンがあるが、彼等はその中にミシンを加えている。従来の手縫いの何倍もの速さで縫えるミシンは、家庭の主婦からは重宝がられたが、服飾産業で働く針子には呪いの的でしかなかった。南北戦争中に大量の連邦軍の軍服の需要の高まりを機に、活気づいたアメリカの衣服産業は、1890年代になるとミシンのさまざまな付属品の用途が見い出され、良質の衣服を大量に生産することができるようになった。1870年から1910年の間に南・東ヨーロッパからアメリカにきた移民も服飾産業の成長を刺激した。ミシンは技術を殆ど必要としなかったので、未熟練の移民の妻や未婚の女性に雇用の機会を開いた。だが、彼等は毎年数十万人の移民が新規労働力として現われるため、極端な低賃金で換気装置もない埃っぽい仕事場で一日中前かがみになってミシンのペダルを踏みつづけなければならず、果ては体をこわし、病院へ送られてしまった。

ミシンはまたアメリカの衣服に革命を起こした。植民地での1800年までの間ほとんどの人は定期市で購入した古着か自家製の服を着ていた。普通の人が仕立屋が金持ちのために作った上質の服を身につけ町中を歩くということなどは考えられなかったので、衣装は長い間社会的地位や所得のしるしとして、庶民を威圧する手段であった。しかし、工場でミシンを使用して安い、上等の衣服が大量生産できるようになった影響で、20世紀末初めまでにはほとんどの庶民が、かつて仕立屋が作っていた上質の服を着用できることがいっそう容易になった。ミシンはアメリカ社会を民主化する役割を果たしたのだ。その結果、作家OユHenry が The Robe of Peace のなかで、「流行衣装を作りだす光栄に浴していた」と言っていた仕立屋は、修繕を行うだけになった。     (新井正一郎)