Scenery           文学の中のアメリカ生活誌(13)     

Cigars and Cigarettes(葉巻と紙巻きタバコ) Cigars(タバコ葉や他の植物の葉で巻いたタバコのことで、語源は喫煙するを意味するマヤ語の sikar から)は、16世紀にヨーロッパ人がやってくるはるか以前から、南北アメリカ大陸で喫煙、医薬、治療、社会的な提供物として広く使われていた。植民地時代の北アメリカのタバコ消費者はチェサピーク地域(ヴァージニアとメリーランド)で製造された噛みタバコを好んで用いていた。だが、彼等は1790年代にカリブ人が初めて新世界へ持ち込んだ cigars(seegars とも綴った)に遭遇すると、従来のタバコの消費形態を捨て、葉巻消費者になった。葉巻の人気は年毎に上昇しつづけ、1810年頃には主婦や子供が手作りの葉巻を売って歩く光景があちこちで見られるほどになった。その後、葉巻工場がコネチカットやニューヨークや有名なコネストウガ馬車の製造地であるフィラデルフィアの町コネストウガに新設された。コネストウガ特産の細長い、香りの強い葉巻は、コネストウガ馬車の御者が好んで用いた喫煙方法となったことで、 Conestogas cigars(コネストウガ葉巻)、その後短縮化してConestogaと呼ばれた。

 葉巻の消費量は、1850年から1870年の間に飛躍的に伸びた。The New York Times は「ニューヨークでは毎日パンより葉巻に多額な金が使われるといっても過言でない。デルモニコ料理店で葉巻を買う立派な紳士から街角の中国人から入手する街路にたむろしている裸足の少年にいたるまでみなタバコを吸う」と伝えている。1844年に安全マッチが発明され、いつでも吸えるようになったことも葉巻の人気が高まった一因である。同時代の文人Walt Whitman は南北戦争中、乏しい私財を割いて兵士の好むタバコなどを買い与えたが、彼自身はタバコをすわなかった。晩年、弟子 H. Traubel との対談で「私と同様、友人の OユConnorとJ. Burrough は非喫煙者だ」と彼は述べている。世紀が変わると、アメリカのタバコ消費者は葉巻から紙巻きタバコへと転換していった。アメリカで葉巻が普及した時期は50年ほどであった。

 紙巻きタバコの初期の歴史については諸説粉々としているが、ひとつはスペイン起源であり、中南米の先住民と接触した16世紀のスペイン人探検者と征服者が葉巻をスペインに持ち帰り、それが上層階級だけでなく、一般庶民の間にも広まり、そのうちに浮浪者が通行人の捨てた吸いかけを集め、砕き、紙で巻いて喫煙するようになったとする説である。イギリス兵とフランス兵は1814年のナポレオン軍との戦いの際に、現地で初めて紙巻きタバコに接した。フランス兵はこれをcigarette(小さなシガー)と呼んだ。アメリカ人は少なくとも1820年代の後半までに、イギリス人からこの新しいタバコを取り入れたと思われるが、南北戦争(1861-1865)前は、その消費量はさほど多くなかった。1881年、James Bonsack が紙巻タバコの製造機の特許を取得したけれど、多くのタバコ産業の経営者は機械化を見送り、cigarette girls(紙巻きタバコ作りの少女、1870年の言葉)の手作業で製造していた。そうしたなか James Buckana Duke は Bonsack 機を積極的に導入し、又当時発明された包装の新しい利用法を創造して市場を拡大していった。1890年には Bull Durhum(「ブル・ダラム」)という銘柄で業界のトップを走っていたブラックウェル商会を追い越した。Dukeの会社は1911年、シャーマン法に抵触するという理由で数社に分割されるが、そのひとつ Camel(「キャメル」)の製造・販売を手がけるレイノルズ社は今日でもアメリカ最大のタバコ会社だ。

Circus(サーカス) Circus(ラテン語の円)の起源は古く、ローマ時代の円形闘技場にさかのぼる。近代のサーカスは独立戦争の頃、イギリスで Philip Ashley が曲馬中心のショーを行ったことに始まる。1793年、イギリスから来た John Bill Ricketts がフィラデルフィアに Asley にならった Ricketts 's Circus and Riding Academy (リケット・サーカスと乗馬学校)という見世物を開き、その宣伝文句の中でサーカスということばを用いた。これがアメリカのサーカスの始まりである。初代大統領 George Washington は乗馬が巧みだったので、Ricketts は大統領の養子 G. W. P. Custis に乗馬術を伝授してもらえないかと頼んだ。彼の率直な言葉は大統領を非常に喜ばせたらしく、以後2人は首都周辺の森や野原をよく歩き回るほど親しくなった。1793年4月22日、Washington が Ricketts の芸を観覧したことで、circusという言葉は急速にアメリカ中に広まった。ついでにいえば、Washington が退任する時、Ricketts は大受けした円形の建物でお別れ会を催した。当時のサーカスは巡業式でなく、直径100フィートの円形の建物の中で演じられる馬の曲乗り、馬の曲芸のことであった。サーカスが各地方を巡業しはじめるようになるのは、道路事情がよくなる1820年前後からだ。大別すると、それは2つのグループに分かれる。ひとつは古ぼけた馬車に出し物を載せて旅回りする単独のサーカス芸人であり、もうひとつは1818年、ペンシルベニアを回った一座のように、田舎者が見たこともない動物(ライオン、象、アナコンダなど)を連れた大規模なグループであった。両方のサーカスを見た作家に Nathaniel Hawthorne がいた。彼は1838年、道路ぎわの居酒屋で出会った馬車で巡回中のオランダ人のサーカス芸人を、次のようにつづっている。「この男は透視画を持っていて、2, 3ペニー払った実直な農夫にヨーロッパの都市、建物、ナポレオンの戦争、ネルソンの海上戦などを見せ」た。同年9月4日に彼が書いた日記には、猛獣を連れた大規模なサーカスを見物した旨の記述がある。「ところどころ岩がでている草原に張った帆布の大テントで、芸人が自分の体重の2倍もあるアナコンダを肩にのせたり、・・・ライオンの口に頭を入れたりする」。

 まもなく、上述の2つの型のサーカスは合体し、発展していった。アメリカのサーカス史を語る時、欠かせない人物の一人が P. T. Barnum だ。彼は1836年、テント興行師として人生のスタートをきった。その後彼は Aaron Turner と組み、楽団、曲芸師、道化師など総勢35名のサーカスを作り、馬車で娯楽の少ない多くの町や村を回るようになった。横断鉄道の時代に入ると、彼のサーカスは circus train で移動した。彼はなかなかのアイデアマンで、彼が考えた「ゴム男」、「象使いの少年」といった呼び物の名は評判を呼んだ。一般には地方回りの暮らしは不安定なものだったが、宣伝上手な彼が開くサーカスだけはどこでも満員だった。1881年、彼がイギリスから買った巨像 Jumbo (ジャンボ)が人気を呼んだため、この言葉は1883年にはでっかいという意味のアメリカ語になった。やがて彼は自分のサーカスを メThe Greatest Show on Earthモ(「地上最大のショー」)と自画自賛するようになった。昨今のサーカスはその象徴であったテント興行から体育館や公民館などの建物を借りての興行に移行しつつある。アメリカのサーカスは原点にもどったわけである。

(新井正一郎)