Letter from Merida

エネケンの悲劇

 先日、サンアントニオ・テウィツという小さな村に行って来た。そこには、小規模ながら今も現役でエネケンを生産し続けているアシエンダ(農場)があると聞いたからである。エネケンとは、竜舌蘭(サボテン)の一種で、細長い分厚い葉から丈夫な繊維がとれる。その繊維は、良質の麻ひもの原料となる。

 メリダからきゅうくつな乗り合いタクシーに詰め込まれ、南東へ30分ほど走ると、その村に到着する。さっそく、アシエンダのアーチ状の門をくぐると、右手にエネケンの繊維の干し場がみえる。白い繊維は、まるでそうめんのようだ。奥に、機械室がみえる。刈り取ってきたエネケンの葉から葉肉をこそげおとして、葉脈(繊維)をとるための分離機である。その機械室のとなりに、今は廃墟となっている元農園主の豪邸がある。草をかきわけながら、その豪邸へ案内してくれたひとによると、かつてはこのパティオで週末になると、盛大なダンスパーティがおこなわれていたらしい。その時代に思いをはせた。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ユカタンでは空前のエネケン・ブームがおこっていた。エネケンで大儲けした農場主たちは、メリダのモンテホ通りにつぎつぎと豪華な邸宅を建設した。意外にも、エネケン最盛期の発端は、米国の南北戦争である。日本人の多くはそう思っていないだろうが、米国は今も昔も農業国である。とりわけ19世紀は、農業が米国の経済発展の基礎となった。さて、南北戦争によって多数の人口を失った北部農民は、機械化によってその労働力不足を補おうとした。ほどなく、トワイン・バインダーと呼ばれる刈り取り・結束作業を一度にこなす機械が開発された。この結束用の麻ひもの原料としてエネケンが最適であり、米国索具メーカーはユカタンのエネケンを買い占めはじめた。こうして作れば作るだけ売れる広大な市場が米国に開け、栽培に適したユカタン半島では、たくさんのエネケン成金が誕生した。

 1908年にメキシコを訪れた米国人ジャーナリストのJ. K. ターナーは、その著作『野蛮なメキシコ』野中で「メリダには、50人のエネケン王が豪華な宮殿に住んでいる」と記している。しかしその繁栄の裏側には、アシエンダで悲惨な生活を強いられている奴隷たちの姿があった。ターナーは続ける「私は奴隷の食事を試食シタ・・・食事はトウモロコシのパンが2枚と、豆と腐った魚の煮物であった。その悪臭が数日間私の臭覚にしみついた」。じっさい、エネケン・アシエンダでは奴隷制が復活していた。奴隷は、マヤ住民だけでは足りず、メキシコ各地からかき集められた。メキシコ北部で反乱を起こしていたヤキ人たちは捕虜にされ、ユカタンに奴隷として売り渡された。人口過剰なメキシコ中部からは、年季奉公人が大量に連れてこられた。もちろん、年季はけっしてあけることはなかった。

 ところで、南北戦争は米国の奴隷制を終焉させるであったはずだ。皮肉にも、その一方で、メキシコにおいて奴隷制を復活させる契機となってしまったのである。エネケン・アシエンダは、高度の機械設備を備える利益率の高いプランテーションに転化していくが、その高い利益率を支えたのは、安価な奴隷労働力だった。エネケン・ブームは結局、メキシコの経済発展に寄与することなく、化繊の普及によるエネケン需要の落ち込みによって、バブルのごとく崩壊していく。メキシコは、19世紀初頭のスペインからの独立以降、たえず北の大国の影響を強く受けながら、近代国家建設をおこなってきた。エネケン産業は、その北からの経済的刺激を自国の経済発展に生かせなかったひとつの例である。なぜ、エネケン産業はメキシコ経済の発展の契機とならなかったのか。エネケンで蓄積されたはずの資本はどこへ消えていったのか。メキシコ経済史における、企業家研究の進展が待たれる。

 エネケン畑を見ようと、サンアントニオ・テウィツ村のはづれまで歩いていった。ちょうど村の真ん中を鉄道路線が横切っている。一瞬、こんな寒村に鉄道が・・・と思ったが、なんら不思議ではない。鉄道は、主要なエネケン・アシエンダを州都メリダへつなぐかたちで敷設されたのだから。線路の向こうには、放置されて荒れ放題のエネケン畑がみえた。かつて古代マヤ文明の栄光をピラミッド群とともに覆い隠してしまった熱帯雨林が、今まさにエネケン畑を飲みこもうとしていた。

 (初谷譲次)