Scenery                                            文学の中のアメリカ生活誌(10)  

The Liberty Bell (自由の鐘)作家Ernest Hemingway のFor Whom the Bell Tolls (1940) の同名の映画は鐘楼に吊るされた鐘の音で始まる。映画(小説)の主人公のアメリカ人義勇兵Jordanは生命、自由、幸福の追求というアメリカ独立宣言の原理を信じる人物であることを考えると、その鐘はフィラデルフィにあるアメリカの政治的独立を象徴する自由の鐘を暗示しているようだ。ところで自由の鐘は1752年にフィラデルフィアのペンシルベニア植民地議会(現在の独立ホール)がイギリスに発注して作らせたもので、当初はthe State House Bell (植民地議事堂の鐘)と呼ばれ、議事堂の中庭に置かれてあった。ある日、その音色を試した時、ひびが入ったので、議会は町の鋳造師John StowとJohn Pass に鋳造を依頼した。新しい鐘は1753年の春にでき、ペンシルベニア植民地議会の鐘楼に吊り下げられた。だが、鳴らすと、きわめてにぶい音だったので、関係者は慌てて2人の鋳造師に修理させた。その年の6 月に完成した鐘は内側に旧約聖書の「かくしてその第50 年を清め」につづく次の一節が刻まれていた。「国中の一切の人々に自由を宣しめすべし」。つまり、この鐘は当初はクエーカー教徒の町フィラデルフィアで50 年間守らてきた宗教の自由を象徴するものだった。鐘にはまた発注元と制作者と制作年代が刻まれていたが、誰かの間違いで発注元のthe State House of Pennsylvaniaはthe State House of Pensylvaniaと刻まれてしまったため、今日までその間違った文字のままになっている。鐘は1753年から1776年までの間、いろいろな折に打ち鳴らされた。たとえば植民地議事堂の始まりを告げて鳴らされたし、フィラデルフィアでの第2 回大陸会議の開催の時にも打ち鳴らされた。また1776年7月8日、独立宣言が民衆に朗読された際にも、その音は高らかに響き渡った。だが、独立宣言が行われた1776年7月4日にその鐘が鳴らされた記録はない。

 1777年9月イギリス軍がフィラデルフィアに押し寄せてきた時、植民地議会は急いで鐘を建物から他の場所に移すことにした。イギリス軍が鐘を溶かして弾薬を鋳りはしないかと心配したからだ。その鐘は他の町の鐘と一緒に荷車に積まれ、藁でカムフラージュされてアレンタウンの教会に運ばれ、イギリス軍がフィラデルフィアを離れる翌年の6 月まで教会の地下室に隠された。その後、それは再度フィラデルフィアの議事堂の鐘楼に吊るされ、1781年のヨークタウンでのイギリス軍のCornwallis将軍の降伏や1788年の合衆国憲法案の採択の知らせを告げた。1835年7月8日John Marshall最高裁長官の葬儀を告げて鳴らされた時、再び大きな割れ目ができたのでとりはずされ、1852年にフィラデルフィアの独立ホールに保存されることになった。なおその鐘が初めて「自由の鐘」と呼ばれたのは1839年に刊行された反奴隷制のパンフレットの中であった。ひび割れた自由の鐘に代わって1876年に独立ホールの鐘楼に取り付けられた鐘は、フィラデルフィアの裕福な商人Henry Seybert が寄進したものだ。これは南北戦争時の大砲を溶かして作ったもので、重さは1,300ポンドであった。新しい鐘は同年7月4日の午後12時1分、町中に最初の音を奏でた。

 1976年7 月、イギリスのエリザベス女王はアメリカの独立200 周記念を祝って鐘を贈った。それは最初の「自由の鐘」を発注したロンドンのホワイトチャペル鋳造工場に作らせたもので、うちがわに「自由を鳴り響かせよ」ということばが刻まれていた。このBicentennial Bell( 200年祭の鐘)は独立記念公園の中の簡素な鐘楼に吊られ、日に2 回(午前11時と午後3時)打ち鳴らされているが、観光客が群がるのは独立ホールの緑地帯の近代的なパビリオンに展示されている「自由の鐘」である。        

Mail Order (通信販売)1860年から1910年までの半世紀の間にアメリカ全土には新しい生産方法の採用や新製品の開発により、急激に膨張してゆく都市が相次ぎ生まれた。だが、当時のアメリカは基本的にはまだ田園的な農業社会であった。アメリカの農村の人口数が都市の人口数を凌駕していたからだ。もっともこの頃の農村部の人々は、都市住民同様、消費と所有に対する大きな意欲をもつようになっていた。この新市場をいち早く見い出したのが各地域を歩き回っていたニュージャージー生まれのセールスマンMontgomery Ward である。中間流通経路をカットし、産地との直接取り引きを考えだした彼は、その着想をGrange(グレンジ)として知られていた農民共済組合に提唱した。グレンジは仲介業者を通さないことにより、農民に安い商品を提供することを目的に、1867 年に設立された組織で、多くの会員を有していた。Wardの狙いはこの目的に一致していた。グレンジとの提携で、1枚の商品価格表からスタートしたWardのカタログは、10 年も経たない内に、農民をターゲットに約1 万項目の商品をのせるまでに厚くなった。多くの農民はWardのカタログから商品を選び、郵便で注文を出し、鉄道便で注文商品を受け取った。代金は商品到着後10日以内に払えばよかった。こうして珍しいものを売っていた都会の店に簡単に行けない農民も、都市の消費社会に参加できるようになったのである。やがてWardのカタログは郵便箱に入った世界一の百貨店と呼ばれ、農村市場を独占した。

 ミネソタ州出身のRichard Searsが1893年にシカゴの時計製造業者Alvah Roebuckと共同出資でつくったシアーズ・ローバック会社の目的も基本的にはワード会社と同様、通販で農村に奉仕することであったが、経営戦略においてはワード会社よりまさっていた。例えばタイプライターが一般に用いられるようになっても、シアーズ社が送る手紙は、農村の顧客が没個性的な手紙を受け取っていやな感じを抱かないように、手書きにされた。シアーズの商売はまた当時の西部のいかさま商人がよく用いた手口と違い、「お気にいらなければ、返品を承ります代金は返します」といった誠実さを売り物にしたので、ノースダコタ州のある町の人々などは、すっかり親しみを感じ、Seroco(セロコ)という町名をSears, Roebuck & Co.,(シアーズ・ローバック会社)に変えたほどであった。こうしてシアーズ社は売り上げを伸ばしつづけ、1900 年までに規模においてワード社を凌駕した。1906年のシアーズ社には毎日受け取る注文を処理する従業員が2,000人いたという。 

 年々シアーズ社のカタログは大きく、厚くなり、20世紀の初めまでに田舎の顧客は、画びょうから住宅までほとんどすべての商品をカタログによって購入できた。シアーズ社のカタログは、農村地帯の人々の消費への欲望をかなえてくれる聖書となったのだ。作家S.Lewis のLand (1931)にはこんな一節がある。「(農場の管理人の)洗面台上の長らく使っていない水さしの横には通信販売のカタログ. . .あった」。

(新井正一郎)