LETTER FROM MERIDA

メキシコと野球

 家族からの電話で、日本のプロ野球の様子を聞いた。シーズンオフに多額の資金をつぎ込んで「補強」したはずの在京チームが最下位に低迷しているという。「スポーツはお金だけでないのだが」という爽快な結論を出したいところだが、そう単純なものでもない。

 メキシコは、ラテンアメリカ諸国一般の例にもれず、スポーツではやはりサッカーが盛んだ。メキシコは、86年ワールドカップの会場となり、決勝まで進んだ。

 しかし、メキシコ南東部に位置し、メキシコ湾とカリブ海につきでたかっこうのユカタン半島は例外である。89年に、筆者が初めてマアヤ村落においてフィールド調査をしたとき、人口300人あまりの寒村にちゃんと野球のグラウンドがあることに驚いたものだ。ちょうど、町のチームとの試合がおこなわれており、チャンカー村というその寒村の側に座って観戦した。試合は、僅差でチャンカー村チームが勝ち、町の選手は機嫌が悪い。その町に宿泊する筆者は、町チームのマイクロバスに便乗させてもらうしか帰る方法がない。やむなく頼むと、「おまえはチャンカー村を応援していたではないか」という冷ややかな目をされたが、笑ってごまかしことなきを得た。

 ユカタンの州都メリダ(人口およそ65万人)には、プロ野球の公式戦がおこなわれるりっぱなスタジアムが3つもある。84年に、レオネス・デ・ユカタン(ライオンズ)が、ククルカン球場でナショナル・リーグ優勝を果たしたときは、メリダのひとびとは大騒ぎし、2日間は町が麻痺状態にあったという。

 しかしながらやはり筆者の関心を呼ぶのは、ユカタン半島では、農村のすみずみまで野球が浸透していることである。「私の村の男たちは、野球のために生きているみたいなものよ」とマヤの知人は言う。

 ユカタンにおける野球の歴史は興味深い。ユカタンに最初に野球を伝えたのは、米国人ではなく、キューバ人である。キューバでは、米国の船員たちから伝わった野球はすでに1860年代に民衆のあいだに定着していた。そして、1890年代のキューバ独立戦争の時期に逃れてきた移民たちが、最初にユカタンに野球をもたらした。この時期、ユカタンでは、穀物結束用麻ひもの原料となるエネケン(竜舌蘭の一種)が空前の好景気を呼び、エネケン・プランターや輸出商が大儲けをしていた。このエネケン・オリガルキーがパトロンとなり、野球はユカタンで急速に普及した。当初は、米国留学中に野球を学んだ資産家の子息が中心となり、Sporting Clubというエリート・チームを作り、1890年代に無敵を誇った。このチームはキューバや米国から「助っ人外人」と連れてきた。

 しかし、1905年に劇的なことが起こった。ユカタン・リーグ決勝で、労働者を中心とする民衆チームが、金持ちのエリート・チームを3連勝でやぶったのである。5年後に勃発する民衆革命(メキシコ革命)を暗示するできごとである。メキシコは、オリガルキー支配の時代から民衆の時代へと変化していった。革命より、エネケン・プランテーションの奴隷が解放された。しだいに、野球は都市部から農村部へ浸透した。

 キューバ、プエルトリコ、ドミニカ共和国、ニカラグアおよびベネズエラとともにユカタン半島は、野球に熱狂する環カリブ海地域の一部を形成している。ユカタン半島の歴史学研究にとってカリブ海地域との交流は、新しい視点である。とくに240キロしか離れていないキューバとの関係は深い。昨年、ユカタン半島東部のキンタナロー州立大学で、学術誌『メキシコ・カリブ研究』が創刊された。野球にかぎらず、ユカタンにおけるカリブ海地域の影響についての研究が今後さらに進展するであろう。

  (初谷譲次)