Scenery  

          文学の中のアメリカ生活誌(8)       

baseball (野球)アメリカの国民的娯楽である野球の起源については、いくつかの説がある。S. R . Church によれば、1842年、ニューヨークの金持ち連中が現在のマジソン・スクエア・ガーデンのあたりで最初に野球をやったという。参加したのはJames Lee 大佐Ransom 医師など偶々その場に居合わせた40歳以上の紳士たちであった。やがて彼等のなかの熱心なメンバーであった A. Cartwright は、仲間たちに上流階級だけが入会できるクラブ・チームの必要性を唱え、1845年にニッカーボーカーというクラブを作った。彼等はまた野球の最初のルールを設定した。例えば1チームのプレーヤーを9人とし、ベースは4個、塁間90フィートと決めた。だが当時のルールは、現行のものとはかなり違っていた。走者はボールを投げ当てられるとアウトになった。投手は現在より近いところからアンダーハンドで、バッターが打つまで投げつづけた。ピッチャーズマウンドはまだなく、投手が投げる位置は目じるしの線を引いたボックスからであった(投手をノックアウトするという意味の to be knocked out of the box という言葉はここからきている)。当時の選手はまた現在の選手と違い、色とりどりのユニホームを着ていた。例えばニッカーボーカー・クラブの選手は白の上衣、青のズボンそして麦藁帽子といったいでたちだったので、ガッツあふれるスポーツ選手というより印象画家Manetの絵から抜け出た暇人のようであった。

 ニッカーボーカー・クラブの最初の試合は1846年6月19日の対ニューヨーク・ナイン戦であった。当時は4インニングで、先に21点とったほうが勝ちだった。結果はニューヨーク・ナインが23対1で勝った。その後、1852年にゴッサムおよびイーグルという名のクラブが、1854年にはエムパイアーとエクスセルシオーが誕生した。翌1855年にはプットナムなど6クラブが結成された。南北戦争勃発(1861)までにクラブの数は34になった。詩人W. Whitmanは若い頃、政治ジャーナリストとしてニューヨークの民主党系のさまざまな新聞で働いた。彼がこの頃書いたものの中に「昨日の午後、プットナム・クラブのグラウンドで行われたアトランテイック対プットナムの試合は、私が見たなかでもっとも素晴しい、手に汗を握るような試合だった。アトランティックが4点差で勝った。しかし敗北は試合運びのうまさというより偶然によるものだというのが一般の意見であった」旨の記事がある。

 最初のプロ野球チームは1869 年に設立されたシンシナティー・レッド・ソックスで、全米を巡業して周り、57 戦無敗であった。ただし、当時はプロチームはこのチームだけで、対戦相手はすべてアマチュアであった。1877年、8都市のチームが集まって、最初のプロ野球クラブ、ナショナル・リーグが発足した。1889年シカゴ・ストッキングズのオーナーA. G. Spalding を団長としたアメリカ・ナショナル・チームが6 カ月間にわたる海外遠征から戻ってきた時、ニューヨーク市のデルモニコ料理店で祝賀会が催された。この会に招待された作家M. Twain はアメリカ以外の国で野球が行われていることに疑問を抱き、その旨を閉会の挨拶で述べた。その後、ナショナル・リーグに対抗するものとして、1901年にアメリカン・リーグができ、1903年にワールドシリーズが始まった。

sight-seeing (観光) 18 世紀後半になるまでは人々は楽しみ、気晴しのために旅をしたのではなく、仕事か労働と関係のある時にのみ旅をした。彼等の行き先はほとんど都市であった。理由は仕事に必要な情報は都市に集中していたからだ。例えば1792年にHenry Wansey というイギリスの仕立て屋は、7 週間かけてフィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン、ハリファックスといった都市を回ったが、その「理由は、うわさは高いが、ほとんど知らない国の衣服産業の現状を学びたかったからだ」としるしている。 

 だが1820年代になると、旅行の意味に変容がでてきた。それは交通の改良と万物の尺度を感情に置くロマン主義運動と関係があった。特に大自然の崇高な景観は人間に深い感動や喜びを与えてくれるはずだ、というロマン主義の主張によって、上流階級や裕福な層は都市を離れて美しい自然を眺めて時間を過ごせば、大きな価値が得られる、という思いを抱くようになった。彼等が好んだ観光地は、ハドソン川とコネテイカット川の周辺といったニューイングランドの北東部であった。1830年代にはアメリカ版グランドツアーが誕生した。このツアーのエリート連中は、ニューヨーク市から当時の高速艇ともいうべき蒸気汽船でハドソン川を遡り、途中金持ちの別荘や美しい村々を眺めながら州都オルバニーに至った。彼等はオルバニーでいくつかのオプションができた。なかでもエリー運河を船でまたは運河沿いの道を駅馬車でエリー湖、そしてナイアガラの滝へのコースは人気があった。当時、オルバニーからナイアガラまでは馬車で数日かかったが、多くの観光客がナイアガラへ出かけ、そこで1週間近く滞在した。まもなく観光に出かける人を対象に旅行ガイドブックが刊行された。1840 年までに10 版を重ねたGideon M. Davison の Fashionable Tour には荘厳な風景を鑑賞できる場所としてナイアガラやホワイトマウンテンなどが紹介されていた。19世紀以前の人々が首都や大都市へ旅をする場合には、仕事に関する情報が多く得られるようかならず紹介状を持っていったものだが、19 世紀の旅人はガイドブックを持って都市と対照的な地へ向かった。自由な時間と十分な収入があった1830年代の作家N. Hawthorne は、新しい経験と感動を求めてよくナイアガラの滝やホワイトマウンテンに出かけた。彼がNew England Magazineに寄せた旅行記 Sketches fron Memory には美しい景色を観にホワイトマウンテンを訪れる鉱物学者、医者2組の新婚者などの様子が描かれている。なお sight-seeing (観光)という言葉が初めて使われたのは1847 年である。

 エリートらの観光旅行の効果は観光産業を促した。例えばホワイトマウンテンの観光開発を手がけたAbel Grafordと2 人の息子だ。1803 年、ニューハンプシャー州が民間業者と有料道路建設の契約を結ぶと、Grafordはその業者の下請け作業員として山あいまでの道路建設、保守点検を請負った。数年後 Graford 一家は、道路沿いに荷馬車の御者用に3 軒のはたごを開設した。その後、数人の旅行者が山あいを抜けてホワイトマウンテンに登るようになると、彼等は観光が大きな潜在的発展性を持つと判断した。とくに息子のEthan Allen Graford はマウントワシントン(ホワイトマウンテンの最高峰)の新しい景観に至るルートを作ったり、地元紙に自分達のはたごと周囲の景観の魅力の宣伝広告を出すなど、積極的な事業展開をした。1827 年から1839 年までの彼のはたごの宿帳には次のような作家の名が記載されている。W. Irving, N. Hawthorne , J. R. Lowell, H. D. Thoreau。

(新井正一郎)