Case Study 在ペルー日本大使公邸の人質事件で思うこと(2)

 今一つの側面、すなわち政治側面では、フジモリ大統領は、1990年の大統領就任以来、施策の遂行のため、伝統的な民主主義による手続を逸脱した政治運営を展開した。それは、従来のペルーの政治経済問題もさることながら、当時の国際経済事情と国内政治事情のもとでの理想国家の実現には、必要不可欠な手段であった。

 6,000パーセントの超インフレ、生産活動の停滞、貧困の深化など、日増しに深刻化する経済状況、党派的ネポティズム政治の横行、センデーロ・ルミノソやMRTAなど、国民大衆の日常生活の安全と平和を脅威にさらす破壊活動集団の跳梁跋こなどを前にして、諸問題の解決や理想国家の建設は、従来の未熟な民主主義思想の硬直化した党派的議会制の国家運営では不可能であり、やむをえず自己流の直接民主主義的な行政手段を採用した。少なくとも1990年の大統領選挙では明確にしなかったが、彼には既定の政治行動であった。

 1930年代よりペルーは、ポプリズム社会思想にもとづいて、国家主義的資本主義化政策(保護経済による国内産業の育成と発展)を採ってきた。これは、民族国家あるいは国民国家の中核をなすブルジョア階級が脆弱な国家でしばしば採られる政策である。半世紀にわたるこの政策は、特異な歴史的な政治、経済、文化、などの社会環境に制約されて、本来の目的を達成すること、すなわち経済の低開発性、政治混乱、社会の後進性などを止揚することができなかった。

 フジモリ大統領は、行政モットーとして、勤勉、誠実、労働、技術を掲げているが、これは、伝統的ポプリズム政治が体現していた慣行に対するもっとも的確なアンティテーゼである。フジモリ大統領の政治行動は、こうしたポプリズム政策の全面否定から始まった。保護政策を廃止した開放経済と、政党政治の機能を実質上限定した直接民主主義手法による政治の遂行であった。

国家の主体的で自律的な存在と、国民大衆の生活基盤の確保のための基礎的な政治経済構造の改革は、新自由主義政策によるものであったが、その立案と執行には次のような従来の諸政策の全面否定や部分修正が必要であった。以下においてそれらを考察しよう。

 IMFは、借款の条件に、貿易の自由化、国家機構のスリム化、国家財政の健全化、債務の規則的な履行、金融機関の整備、公共料金の一層の国民負担増などを要求する。フジモリ大統領は、資本導入のための環境整備(政情の安定化と関係法体系の確立)を前記条件の履行のために約束しなければならなかった。

 政権担当以来、経済政策の変更や政情安定化のために反テロ法を施行し、軍、警察など暴力機関に特権を付与し、反社会的分子やゲリラ・テロ組織の徹底した弾圧や壊滅作戦を展開した。軍部、警察の行動地域の拡大の結果、大衆の人権の侵害や蹂躙など不法行為が頻発したが、それを黙認して、条件整備に精励する一方、大胆な経済政策を遂行して経済の部分的安定につとめ、借款条件の充足に着手した。

 しかしながら伝統的な政治経済体制の中では、それらは、いずれも不十分で中途半端なものとなった。IMFを中心とする外部融資組織の一層の信頼と満足をえるため1992年、クーデターを敢行し、1993年には新憲法を発布して、更に広範な状況整備につとめ、資本導入の安全性の確保をはかった。

 新しい開発と発展の精神にのっとり、抜本的な改正をへて法体系が確立された。企業法、外国為替法、関税法、租税法、農地改革法、刑法、労働関係法、選挙法、政党法などの改正で、国有企業の民営化、外国企業の設立の簡素化、市場の開放、私的所有の拡大、課税範囲の拡大と効率化、労働市場の柔軟化などが推進され、資本の移動と商品流通の自由化の促進がはかられた。

 行政機関のスリム化では、公的サービス機関の統廃合による大幅な人員削減や給料のカット、補助あるいは助成制度の廃止などが推進された。また国家財政の健全化のもとに、年金、教育、医療、社会福祉などの諸制度のサービス機能の大幅な見直しと、補助金の削減、共同体の農業生産部門に対する助成制度の見直しも行い、あらゆる社会側面における施策の遂行のための布石を打った。

 新しい状況は、必然的に各方面のきびしい反響を呼ぶこととなった。外部の状況、意図などに規定されて、その推進は各方面で齟齬を生じ、整合性を欠くものとなってきた。これら一連の改革の断行は、経済が順調に発展し、目的が着実に達成できることを前提としたものであった。しかしながら以下のふたつの基本的な要因から、その進展は満足のいくものとはなっていない。

 ひとつは、資本原理、すなわち資本主義の論理によるものであり、いまひとつは、フジモリ大統領の独自の国家観によるものである。資本の論理的矛盾については先に述べた。ここでは現象面での矛盾を眺めてみよう。国営企業の民営化は、大量の失業者を生み、貿易の自由化による市場の開放は、外部の市場支配や中小企業の生産の縮小や倒産を引き起こした。また農地法の改正は、農民から生産手段を奪い、自給体制の崩壊による困窮者を創出した。公企業の民営化や行政のスリム化は、解雇者や不利益者を、規制緩和は諸権利の喪失者を生んだ。そして労働関係法の改定による団結権、団体交渉権などの労働者の諸権利の制限や剥奪は、労働強化や不当労働行為、司法当局による弾圧、解雇者処分を生みだした。

 フジモリ大統領の国家観は、一部企業家や資本家および外部投資家の不平と反発を惹起した。大統領はかつて、報道機関とのインタビューで、導入資本は国家の真の発展に奉仕させるべきである、と語り、自らの経済政治政策が外部従属のためでも、従来のポプリズムの再生発展のためでもなく、国民大衆のための国家資本主義の発展のためのものであることを明言している。

 事実フジモリ大統領は、自由主義経済を受け入れ遂行しながらも、国家の経済社会の存立に不可欠なエネルギーなどの経済部門の完全な民営化や外部勢力の独占的支配は、国益を損なうとして抵抗をしている。このことは、アメリカやその他の先進諸国と大統領の利害とが、必ずしも指摘される程一致していないことの証左となっている。

 この他に、二義的で、総合的矛盾として、課税の強化、外債返済のための偏重した貿易振興政策、平価の切り下げ、物価の高騰、公務員給料やサービスの圧縮、麻薬対策や政府関係者の不祥事やその不条理な処理、不十分な政府の軍部対策による軍部内抗争、人権の配慮の欠如などが存在する。

 さて、以上考察したように、フジモリ政権の性格と政策は、国民国家経済の確立を志向するものであるが、矛盾が本質的で構造的であるがために、その解消には強権の行使を伴い、そのことが、また他の諸側面の矛盾を生むという状況にある。

 こうしてペルーの現代社会には、種々の側面でフジモリ政権を非難し糾弾すべき、否定的要素が存在する。しかしながら、これらの矛盾が、国民大衆の一人ひとりに一様に、かつ同程度に感得されているわけではないところに、フジモリ大統領が、ある程度支持されなおかつ政権を維持している理由がある。まさに現在は、それぞれ大衆全般が、また各利益集団が、フジモリ大統領に、総論においては賛成し、支持するが、各論においては反対あるいは不満である、という状況であるといえよう。

 このような諸要素を考慮すれば、事件の背景と冒頭において断定的に指摘した人質問題の諸側面が、またその後の交渉過程の、国内外の限りなく客観的で、冷静な関心の寄せかたが、よく認識できるのではないだろうか。

 ここで、はじめにテロ行為の動機として提起した論拠を、MRTAの運動とその性格をすこし詳細に検討することで説明しよう。

 なぜMRTAがフジモリ政権に対する異議申し立てをしたのか、つまりMRTAが、なぜ率先してその役割を担ったのか。彼らの過去の行状からは全面否定はできない見解だが、彼らの行動が、特定の経済的利益集団の意向によるものであるという意見もある。今はそれはさておき、客観的な分析結果から、次のような8つの要因を主要な行動原因として指摘することができよう。まず一般的なものをあげれば、

1)フジモリ大統領が、ますます強権を行使し、矛盾拡大の政策を推進していること。

2)政党法や選挙法また労働関係法などの改正により、労働組合や政治結社の組織化や運営が困難となり、組織的あるいは体系的な政府批判や反政府活動が展開しにくくなったこと。

3)主として、1968年の改良主義的軍事政府の政治経済社会の構造変革は、都市への人口集中と、全般的な国家構造の変化を招来したが、いずれの既成政治集団も、こうした事態を踏まえた政治結合の論理を構築できず、市民レベルあるいは各階層の利益側面から、フジモリ政府の諸政策に対する有効な批判あるいは対抗手段を提起しえなかったこと。

4)国際社会における社会主義社会の崩壊により、国内の左翼集団が、自らの依拠する変革の論理を喪失し、新たな自由主義的諸政策に対抗し、真の社会主義社会の建設のための論理の正当性を国民に提示できなくなったこと。

5)MRTAが、フジモリ大統領の政治スタイルに対する不信感、すなわち政治的あるいは社会的伝統の変容あるいは消滅に対する不満、あるいは不安を増幅させている集団の利益代表となっていること。

6)彼らが、主観的に考察し、現在の政治状態に対する各階層一般の不満が高揚しており、それなりの支持があり、政策拒否、あわよくば政権打倒の端緒を、自らの主導のもとに切り開くことができると判断したことなどである。

 主体的または党派的な行動理由としては、

7)MRTAが、従来の伝統社会の中で、多少なりとも安住できたものの、現政権のもとでは、もっとも大きな打撃を受け、没落し、新たな貧民層を形成するに至った中小企業者、公務員、インテリ、学生などの都市中間層の覚醒した部分を支持基盤とし、組織構成員の供給源としていること。同時に彼らのスポークスマン的役割を果たしていること。

8)MRTAは、決して教条主義的なマルクス・レーニン主義者ではないこと。普遍的かつ包括的社会変革の綱領がなく、政治活動にも一貫性を欠く、非階級的思想を多く包摂するプチブル的アナーキー急進主義者にほかならないこと。このことは、MRTAの創設は1982年だが、メンバーの多くは、1960年代からMIR(革命左翼運動)やその後分裂して形成された民族的左派系統の政治運動に関係しており、客観性を欠くゲリラ闘争や今回のような政治的テロ活動をすでに経験していることなどである。特に今日のMRTAは、ここ数年来の度重なる内部の粛清で、政治活動を重視する部分を除去し、武力闘争を革命の唯一の突破口であると標榜する集団となっていること。

 この結果、テロ行為、テロの場所など一連のことがら、また彼らの政治要求やその後の交渉のなかで言及されていた合法政党化、アマゾン地域への移送、運動体の建て直しなどの要求は、彼らの組織的制約と主観的で、極めて表層的な考察からの、今日の社会状況に強く拘束されたものとなり、貧困対策や人権の蹂躙にみるフジモリ大統領の政策矛盾をいくら批判したところで、イデオロギー的あるいは階級的利益の追求からは勿論のこと、その他のいかなる社会的観点からも、究極的な状況打開の次善策さえ提起することができない。したがって、その行動は、脈絡の無いあるいは社会的要請との整合性を欠いた刹那的で近視眼的なものとなり、単なる不満不平のドラスティックだが説得力のない、またそれが為に、国民大衆の賛同の得られない表明しかできないということになると言わざるを得ない。

 "明日のビフテキより今日のパン" という現実的な対応を求める多数の貧困者を前にしてのフジモリ大統領の方法論には、問題があるとしても、彼なりの問題意識と解決方法には、既にみたように十分それなりの理由がある。フジモリ大統領が袋小路のなかで呻吟しながらも、決して彼らの要求に屈せず、自らの行動原理に固執し、一見偏屈な姿勢をとったのも十分にうなずける。

 交渉が決裂し、強行突入という結果でこの問題の結末を迎えたが、依然としてフジモリ政権の苦境は改善されることはないだろう。ペルーの国内の厳しい社会的諸状況と先進諸国や自らの関わり方を熟慮せず、テロ行為をできるかぎり一過性的なものとみなし、人道的対応のみをペルー政府に追った日本の姿勢は、今後も、ますますフジモリ大統領の政治的判断と行動を束縛し、国内政治とフジモリ大統領の政治的立場を悪化させることになることは明らかである。

(おわり)

(上谷 博)