Lateral Thinking

シンプソン裁判が新しい慣習を?

 ちょっと旧聞になるが、例のO・J・シンプソン事件の民事判決の結果は、どうも引っかかる。元妻とその愛人殺しの事件で刑事裁判では無罪判決を受けたシンプソンが民事裁判でその死に対する補償では有罪判決を受け莫大な損害賠償をすることになったのに、深刻な事態にならないのか。

 第二の判決の直後、そのときのアメリカの最初の反応を映したビデオをニューヨークにいる教え子が送ってくれた。われわれから見て、当然なことながら、主として白人たちが万歳していたが、そのとき出てくる言葉はvictory、triumph、justiceといった言葉ばかりで、「真実が勝った」という言い方が出てこない。

 日本であれば、裁判は真実を追求する神聖な場であり、ゲーム感覚の勝ち負けで判断するのが腑に落ちない。われわれが学んだ司法の観念では、裁判では検事も弁護人も裁判官もともに真実の発見につとめるはずである。かく言う私自身、教室でアメリカの政治を説明するさい、「アメリカの裁判はゲーム感覚で行われ、真実(truth)よりも事実(fact)の選択が優先する。だから優秀な弁護士の費用はきわめて高く、そうした弁護士がつくと勝訴する可能性は大きい。まして陪審員という素人集団が有罪か無罪かを決めるのだからアマチュアリズムが裁判を支配するといっても過言ではない」といってきた。

 だがそうはいいながらも、この事件のように人間の生死がかかっており、場合によっては被告人は極刑になるかもしれない時に、無罪と有罪という二つの判決が両立するという現実には納得しがたいものがある。刑事と民事の違い、罪状の違いがあるとはいえ、真実は一つのはずであり、一事不再理という司法の大原則とはどう絡むのだろうか。

 私は、長年の習慣で、アメリカの現象で理解しがたいものが出てくると、英国の評論誌 The Economist がどう評価するか一つの判断基準にしてきた。

 The Economist 誌は国際問題についての評価は最高だと思ってきたし、だからこそ世界中の指導者の机の上にいつものっているといわれる。その点、同誌のAmerican Survey というページはアメリカ理解に最適である。ただし、これまた私見だが、ことが英国に直接絡む問題となると、たちまち国益を優先する主観的な判断に変わるから安心できない。

 さて、同誌の第二のシンプソン裁判評(1997年2月8日号)だが、見出しは a travesty of justice(変装された公正さ)と、今一つ歯切れが良くない。第二の裁判は第一の裁判同様芳しからずとしながら、いささか違った切り方をしている。以下その要点をまとめてみると・・・

 *第一の刑事裁判は茶番劇だった。判事はほとんど法廷をコントロールできず、証人はカメラの前で演技し、弁護側は殺人事件を人種問題にねじ曲げた。大半が黒人の陪審は簡単に無罪の評決をだした。

 *第二の民事裁判は表面はるかに有効にみえたが、こわいほどのスピード裁判で、陪審での黒人はただ一人、人種問題の持ち込みは許さず、有罪。

 *米憲法は一事不再理を原則としているが、弁護士たちの強い要求で刑事、民事の法廷の違いと罪状の違いを理由に、「一事再審理」が認められた。その結果、同一人物が殺人では無罪、だが死に対する損害賠償では有罪、しかも身柄は自由結果となった。--

 こうして、最後に、二つの裁判という形式は数年前にロドニー・キング事件(白人警官が黒人を暴行した事件)で前例を作っていることをあげ、「芳しいとはいえないが、事件がきわめて紛糾し、とくに人種が絡んだときの裁判に、新しい一つの慣習が生まれつつあるようだ」と述べている。法律を最優先する大陸法にたいし、前例や慣習を大事にする英米法の考えだした方便なのだろうか。       

(北詰洋一)