Case Study 在ペルー日本大使公邸の人質事件で思うこと(1)

 栄光ある古代文明や優れた観光資源、最近では日系大統領の誕生とその華々しい活躍など、明るくて積極的なイメージを与えていたペルーも、今回の人質事件で、それも一気に暗転した感がある。昨年12月17日の人質事件の発生以来、すでに2ヶ月以上の歳月が流れている。周知のように、今もって事件の解決を見ず、目下それへ向けて精力的な交渉が行われており、国内外の世論は、その事態の推移を不安と希望との交錯した複雑な思いで注視している。

 この間事件に関して、行為者、動機、目的、成功の原因、決行時期、場所、行為のもつ意味、などの観点から、多くの識者が種々分析を行い意見を開陳してきている。それぞれの論評は、断片的部分においてはそれなりの道理をもち、正鵠を得ていると思われる。しかしながらこの事件をまったくの孤立的で突発的な事象として理解せず、国際的国家的諸状況のなかで認識するかぎり、諸説は一面の真理をもつとしても、問題の全般的また本質的な認識把握には至ってはいない。

 今回の事件の核心は、MRTA(トゥパック・アマル革命運動)の真の行為目的から理解しうるかぎり、ずばり真摯な大義名分のないもので、たんなるフジモリ政権の権威の失墜と、政策遂行の妨害、社会的諸矛盾の増幅と社会政治的混乱の創出を、最も挑発的かつ扇情的、また即効的に実現することを企図するものにほかならない。そうした意味では、彼らは人質事件を成就することによって、所期の目的を達成したと見ることが出来る。現在展開されている人質解放の交渉において、そこで達成されるいかなる成果も副次的にすぎない。むしろ交渉の長期化はますますフジモリに与える打撃がより効果的になり、真の目的達成に近づくこととなる。

 この論拠は以下の通りである。1)行為主体がセンデーロ・ルミノソやその他の革命あるいは変革志向集団ではなくMRTAであること。2)行為自体が継続的で連帯的要素をもつ政治的なものではなく、一過性的で軍事的なものであること。3)新自由主義的経済政策の変更、収監中の仲間の釈放、彼らの逃走先の確保や移動の安全の保障、戦争税の支払いなどの要求事項が明示するように、国家的視座に立脚した体系的あるいは包括的な視点からのものではなく、きわめて個的で、しかも利己的で些末的であること。またいずれの要求事項も、交渉以前より現実に交渉俎上にのぼり得ないものばかりであり、いずれも実現不可能なものばかりであること。またその後の人質解放の交渉に見るように、要求事項がしばしば変更され、首尾一貫性を欠きその交渉態度から目的意識の希薄さが見られること。4)テロ行為のターゲットが恣意的であること。5)実行時期が今日的政治経済状況を反映し時宣を得たものであること。

 それでは客観的に彼らが失墜させ阻害するべきフジモリ政権の諸政策と権威とはいかなるものであり、いかなる要素に依拠するものなのか。フジモリ大統領の権威は、フジモリ主義といわれる国家主導イデオロギーに基礎づけられている。その理念は、すなわち新自由主義経済の広範な促進と中央集権的かつ強権的政治権力によるペルー自由主義的民主国家の再生である。フジモリ大統領の理想の国家観念は明確である。従来のポプリズム的政治経済政策を払拭し、新自由主義的経済政策により国際社会において競争力のある生産組織体系を確立し、ペルー経済を自立、活性化することである。そして積年の諸問題すなわち貧困と社会的諸側面における後進性から脱却することである。またそれに依拠する新しい国民文化を創造し恒常的にそれを拡大再生産し、やがては世界の先進諸国に比肩していく国家の形成を志向することである。その実現には、従来の政治風土や社会的慣習などのうち否定的な部分を是正し、伝統的精神文化さえ、それが積極的な国民文化の発展に障害となるものならば敢えて刷新しなければならないという。これらは現実には一朝一夕には実現しえないものであり、その過程においては多少なりとも国民に犠牲を強要するのもやむえない、との観点から今日の諸政策を遂行しているが、それに対する反発はきわめて大きく多種多様なものがある。実際短期日の抜本的改革や革命的ともいうべき今日の彼の諸事業の推進は必然的に大きな反発を招来するものである。

 こうしたイデオロギーにもとづく諸政策は具体的には、どのような深刻な問題を内在させているのだろうか。ここでは経済的側面において考察してみたい。まず自由主義的経済、すなわち資本主義経済そのものがもつ論理的矛盾を指摘することができよう。発展段階的格差、自由競争による市場占有に見られる競争原理の矛盾、資本と労働の対立という階級的矛盾、より具体的には国民経済と多国籍企業との対立、国内市場をめぐる民間経済と外部経済との対立、先進諸国間のペルー国内における市場占有の競争問題、資本家と労働者の対立などである。そのうえいわゆるペルーのような周辺資本主義諸国内特有の資本主義経済組織と前資本主義的組織の原理的な対立矛盾を、これに付加しなければならない。

 また新自由主義的経済を促進し発展させ、国家レベルの市場経済を確立させるためには、大量の資本と高度な技術の導入が必須の要件となる。このことは結果的にはIMFに代表される先進資本主義諸国の金融組織体の処方箋に準拠して、限定的な国家的裁量のもとに国民経済を創設し発展させることが義務づけられることになる。そのもとでは事実上国民のための国民経済の正常な発展が、その諸側面において不可能となる。

 具体的には、商品市場の全面的解放と国民経済の中核をなす消費財、あるいは生産財の国内生産組織サイドにおける生産規模の縮小あるいは消滅を招来する。そして国民経済の正常な発展は阻害され、やはり従来のような跛行的あるいは奇形的な経済構造(輸出産業や地下資源の採掘産業やその他の原材料産業)を再度しかもより大規模に創出させることとなる。国民経済そのものの外部への依存性あるいは寄生性の深化を促進し、国家的市場経済の形骸化を進行させる。

 さらに新自由主義経済の推進とは、とりもなおさず生産手段の私的所有化の推進であり、質量的側面における生産力向上の追求である。私的所有の推進は、ペルーのように資本財生産の能力がきわめて低位で資本蓄積が不十分な国家にあっては、彼らの生産組織の外部資本への売却(国営企業の民営化)や経営権の移転を意味する。また農業経済部門においては、従来より存在する種々の所有形態の画一化を生み、生産力中心的生産体系からの、自給体制、生活環境などの破壊などにおいて諸々の否定的問題を招来する。同様に、生産力の向上あるいは生産の効率化は、必然的に生産組織体に諸側面における合理化を要求する。その結果もっとも深刻な側面は人的資本に関するものとなる。

 確かに自由主義的開発はペルー国内の潜在的生産能力を顕在化させる。すなわち各地域の経済資源の開発にはきわめて有効であり、歓迎されるべきものがある。地域開発は、総じて多額の資本と高度な技術が要求されるものがほとんどであるからである。地下資源、天然資源(地域特有の農畜産物)、海洋資源などの開発は、結局外部資本と技術の導入によらざるを得ない。しかしながら国内生産組織が構造的に未整理あるいは未発達なペルー経済にあっては、これらの新規開発産業を国内の諸産業に積極的にリンクさせることはできない。また外国資本は、本来的に自らの資本の論理またはその資本の志向性に依拠し行動するものであるがため、国内産業の開発や育成という視点を欠落したまま、いわゆる国内経済発展とは没交渉的な開発行動をとることとなる。このことが国民大衆や各生産部門および関連部門の当事者集団の感情を強力に刺激することとなり、彼らがもつ違和感を逆に助長することになり、このような制度の強力な推進は大衆には強権的な大統領の政治姿勢と映るのである。(つづく)            (上谷博)