Scenery

    文学の中のアメリカ誌(6)    

turnpike (有料道路) 独立戦争(1775-83) が終わってしばらくたっても、アメリカの道路は貧弱だった。当時は河川が主なハイウエイであった。道路はこうした河川から内 陸に向かって延びていたが、道幅は狭く、橋などもほとんどなく、主としてミシシッピー川の流れにのって筏で積み荷を運び終えた船頭が筏を処分した後、歩いて戻るのに使う、いわゆるけもの道程度のものが多かった。大きな町がある東部の道路も川岸で途切れたり、めちゃめちゃに分岐したりしていた。方向を示す標識や地図などはもちろんなかった。

 道路の大半が未整備であったので、郵便物が正しく宛先の住所に届くことは稀だった。たとえ届いたとしても、その返信がくるまで1年近くかかった。当時の人々が手紙を書く時は、冒頭で前に出した手紙について触れるのが習わしであった。次は後に第3代大統領になったT. Jefferson が1776年にフィラデルフィアからヴァージアの友人宛の手紙の書きだしである。「当地で8月1日付けの貴簡拝受しました。11月24日の手紙はつい今しがた受け取りました。しかし10月の手紙は届かなかったと思います」。他の州に通じる道ともなると、もっとひどかった。そういうわけで独立革命の民衆派の指導者で、第2代大統領のいとこであったS. Adams は、住んでいたマサチューセッツ州の外へは一歩も出たことはなかった。だが、これは当時としては珍しいことでなかった。当時のマサチューセッツ州にはわずか6台の馬車しかなかった。ヴァージニア州でも多くの人々は幌馬車以外に4輪の乗り物を見たことがなかった。つまりこの頃のアメリカは馬車の運行には役立たない細い、でこぼこの道路がほとんどの田舎でしかなかった。そんな状況から素朴な田舎者を表わす用語が数多く生まれた。例えばドイツ語のJokel からきたといわれているyokel は1812 年に現われた。 hayseeda, bumpkin, rube(いずれも田舎者の意味)なども同じ頃に生まれた。

 尤この時代のアメリカ人は、合衆国の結束を固めるには道路建設が極めて重要であることを認識していた。彼等の道路事情の改善は、経済が活況を呈し始めた1787年頃から、turnpike(1678年に英国に生まれた語。今は有料道路を指すが、元は料金を取るために道路に置いた障害物を意味した)と呼ばれた道路を建設することから始まった。民間会社が手がけた最初の道路事業は、フィラデルフィアとランカスターの間に造られた長さ62マイルのturnpike であった。18世紀末のアメリカの主要な馬車道路は、このturnpike を含め4本しかなかった。だが1820年代から各州が連邦政府と連携して、道路改良事業に力を入れたので馬車による乗客や物資の輸送がかなり容易になった。とはいっても1850年代に入ると、速度、輸送力においてはるかに優れた潜在力をもつ鉄道がturnpike に並行して造られていったので、turnpike 熱は衰えてしまった。道路建設ブームが再熱するのは自動車が大流行する1930 年代になってからだ。次は文人W. Whitman のLeaves of Grass (1855) の詩句である。「ぼくは. . . turnpike (有料道路)の轍の跡をたどり、水のかれた峡谷や川を辿りつつ. . .」。

 前記の4本の幹道の1つ、フィラデルフィ〜コネストーガ川の河口間の大路を走る幌馬車は、最初 貨物輸送に使われたためfreighters (貨物馬車)と呼ばれたが、1765年前後には、製造されたペンシルベニアの町コネストーガに因み Conestoga wagon (コネストーガワゴン)と呼ばれるようになった。幅広い車輪をもつこの大きな馬車のブレーキは左側についていたため、御者は座席の左に座らなければならなかった。彼等は町の特産の細長いコネストーガタバコをふかしながら馬車を走らせたが、前方がよく見えるように道路の右側を走る傾向があった。現在のアメリカが右側走行であるのはこのことに由来するといわれる。

fireworks (花火)T.Jefferson が起草したThe Declaration of Independence (独立宣言)は、1776年7月2日にフィラデルフィアで開催された大陸会議で可決された。後に第2代大統領になるJ. Adams は妻Abigail 宛の手紙(7月3日)でこう書いている。「7月2日はアメリカの歴史上もっとも記憶すべき時期になるだろう」。その2日後の7月4日は大陸会議の議長J. Hancock と事務官C. Thomson だけがその草案に署名した。羊皮紙に書き直された正式の独立宣言にJ. Hancock と他の51名が署名したのは8月2日、最後の署名人、つまり56番目のデラウエア代議員のT. McKean が署名したのは1781年であった。そういうわけで独立記念日は7月2日、7月4日、8月2日のいずれを選んでもよかった。

 フィラデルフィアは7月4日を独立記念日にした。前記のJ. Adams の妻宛の別の手紙にはフィラデルフィアの独立宣言1周年は、独立宣言文の朗読や愛国心をテーマにした説教が主であったが、パレード、祝砲、大かがり火、さらに音楽の演奏にまじって花火の打ちあげがあった旨記されている。つまりfireworks (花火)という単語が初めてアメリカで記録されたのは1777年7 月4日であった。まもなく花火は、独立戦争の真っ赤な輝きを象徴するものとしてこの祝典には欠かせないものになった。だが1866年になると、firecrackers(1820年代以降にできた花火という語)の大きな音や火薬から起こる事故に苦情を言う者がでてきた。ペンシルベニアのある住民は1866年 7 月 4日付けの日記に「民主主義の誕生が規則無視と騒音とで祝われる7月4日は1年中で最もいまいましい日だ。昨晩も今日も銃と花火の音は鳴りやまなかった。7月4日には愛国心を捧げる気分になれない」と書いている。1890 年代に結成した無用音禁止会は、7月4日に病院などの公共建造物の近くで花火の使用を禁じる法案を制定する運動を起こした。それでも暫くは花火は禁止されなかった。大人は通りすぎる馬に花火を投げつけ、馬が驚いて後足で立ち上がるのを見て面白がった。少年たちは点火した花火をいつまで持てるかを競って遊んだ。だが、こうした花火の使用のために大怪我をする者が多数でた。アメリカ医師会の調査によると、1903年から 1907 年までの独立記念日には総計 1,153人が花火のために亡くなり、21,520人が負傷した。その結果、マサチューセッツ州スプリングフィールド市は1903 年に花火の販売を禁じた。この年、スプリングフィールドでは花火で誰も負傷しなかっただけでなく、花火に起因する火事も皆無であったことが報じられると、他の多くの州はスプリングフィールドに倣った。

 今日では50州の内 35 州が花火の使用を条件付けで認めている。例えば、カリフォルニアでは花火の販売は独立記念祭の1 週間前だけに限定されている。必然的に7 月 4 日は平凡な夏の日になってしまった。独立記念日に使われなくなった花火は、党大会やスポーツ大会などの催物で打ちあげられるようになった。以下は作家F. S. Fitzgerald のA Night on the Fair (1928) からの引用だ。「共進会のコンコースで毎晩花火大会が行われた」。                                 

(新井正一郎)