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 以下は同11月16日行われたアメリカス学会年次総会で行われた二つの研究発表の概要である。

 

星 条 旗 の 誕 生

            和 田 光 弘(名古屋大学文学部助教授)

 ニューヨーク州立大バッファロー校で、アメリカ史を学ぶ学生たちに1975年から1988年に行った、独立戦争から南北戦争までで大統領、将軍、政治家を除いて、アメリカで思いつく有名人を10人挙げなさいという調査によると、ベッツィー・ロスという女性が、常に一位にあげられた。その理由は、彼女は1776年に最初のアメリカの国旗を作ったといわれるからである。しかし彼女の名前は、アメリカ史の教科書に一切でてこない。その理由は、彼女が最初のアメリカの国旗を作ったということは、歴史上資料によって証明されていないからである。

 それでは、なぜベッツィー・ロスが、最初のアメリカの国旗を作ったといわれるのか・・・。それはベッツィー・ロスの孫のウイリアム・キャンビーが11歳の時に、直接彼女から「自分の夫の兄で、大陸軍の軍人であったジョージ・ロスが、アメリカの国旗を作る必要性を痛感していたジョージ・ワシントンの意を受けて、ジョージ・ワシントンと独立戦争の財政を担当していたロバート・モリスと一緒に、自分に、アメリカの国旗を作るよう頼みにやってきた。そして、自分が旗のカントンの部分に、13個の五芒星を円形にあしらった国旗を作ったのである」というのを聞いたと1870年に、証言したからである。しかしこの伝説は、文書の形の証拠として残っていなかった。だから歴史学者たちは今日まで、ベッツィー・ロスの孫が、この伝説を捏造したとみなしてきた。

 独立戦争当時、アメリカでは、国旗が国作りに必要とは考えていなかった。植民地時代、アメリカでは政府の建物には『ユニオンジャック』と呼ばれるイギリスの国旗が掲げられていた。が、各植民地はそれぞれの旗をもっていた。各州の民兵たちは軍隊への帰属意識を高めるために、『連隊旗』を掲げていた。植民地時代の人々にとって旗というものは、日常の生活に密着していなかった。しかし独立戦争とともに、各植民地のシンボルが重要になった。ヘビ、自由の柱、松ノ木、赤と白のストライプが交互に9本並んだ抵抗のストライプなどが有名である。この抵抗のストライプが、星条旗の13本の赤と白のストライプの原型になったようだ。

 独立戦争が拡大し、植民地共通の旗の必要性が叫ばれ、できあがったのが『大陸旗』である。カントンの部分にイギリスの国旗が組み込まれ、残りの部分に13本のストライプが組み込まれた旗である。カントンの部分にイギリス国旗が組み込まれていたことは、植民地の指導者たちが、イギリスからの独立だけを考えていたわけでないことを示している。『大陸旗』が陸においてはいくつかの軍事施設、海では主に艦船に掲げられたが、陸では各州の民兵たちはそれぞれ独自の『連隊旗』をもっていたので、『大陸旗』の役割は軍艦の識別だった。やがてアメリカでは新国家の象徴として『国璽』のデザインのための委員会が作られた。

 新国旗の制定を強く主張した人々に、フィラデルフィアの商人たちと先住民たちがいる。先住民たちは旗というものが自分たちを象徴し、力を表すと思っていた。大陸会議は、今日『 Flag Day 』となっている1777年6月14日に、「合衆国国旗は赤白交互の13本のストライプからなり、カントンには青地に白色の星座をつくるべし」という決議を行った。この決議をした議員たちは、カントンの部分の白色の星の円形の置き方について共通理解があったといわれる。カントンの部分に13の白色の星を円形に並べたデザイナーがフランシス・ホプキンソンという人物であったことはわかっている。

 新国旗制定の記事がアメリカ各地の新聞に掲載されだしたのは、2か月たってからだった。やがて新国旗は『条星旗:Stripes and Stars』と呼ばれ、星よりもストライプの方が重要とみなされていた。当時、アメリカでは国旗よりも、ジョージ・ワシントンの人型や鷲がシンボルとして有名だった。新国旗が有名になったのはフランシス・スコット・キーが1814年に『星条旗』という愛国歌を作詞したからだった。その後、南北戦争で新国旗は「市民宗教」の最高位に登りつめた。国旗崇拝の運動が高まり、1880年代から20世紀初頭にかけて、国旗はアメリカのすべての公立学校に置かれ、『忠誠の誓い』で称えられた。1924年の全国国旗会議で、国旗の礼式に関する民用規定が決まり、星条旗のデザインが確定、星条旗がアメリカ国民の愛国心の中枢に位置するようになった。

 最後に、ベッツィー・ロスが「有名人」として挙げられる理由は、『星条旗』という国のシンボルを生み出した母なるイメージ、いわゆる『聖母マリア』的なイメージを持っているからかも知れない。史料によって実証できないが、実証できなくとも歴史的に大きな役割を担っていることを示しているといえる。        

                                (まとめ 辰巳斉彦)

 

 

1960年代と文化多元主義

                       北 詰 洋 一

  現在のアメリカは文化多元主義の時代と呼ばれており、それは多分に民族多元主義と同一視されている。しかし現代社会の複雑さと絡んで、両者の間にかなりのズレが生じ始めているように思われる。それを現代アメリカの黒人社会の中で考えてみたい。

 まず最初に文化多元主義と民族多元主義の違いを考えてみる。文化とは規定しにくいものであるが、テイラーによると知識、信仰、道徳という人間が社会に存在するのに確立したもの、つまり日々の営みによって生まれたものを文化とする。また民族とは人々が歴史を共有し共通文化、共通の祖先を持つものを民族としている。そのため以前は文化と民族の関係は密であり、文化多元主義と民族多元主義での文化と民族はほぼイコールで結ばれると考えられてきた。しかしアメリカ社会がサラダボールといわれてきた時期から民族多元主義に変化が現れてくる。そして文化と民族の関係が薄れてきて、思想、信念という観念的なもので人々が結びつき新たなる文化を作り上げるようになってきた。人々は民族の違いという壁を乗り越えて結びつき始めたのである。

 このような点から考えると、アメリカの黒人たちをまとめて "African American"と呼ぶことはできないのではないか。何故ならアメリカにいる黒人とアフリカに住む人々の間には民族的、人種的な起源は一緒であったとしても、量的にも質的にも、両者の文化は違いが大きくなりすぎている。

 またアメリカの黒人とアフリカの人々の違いだけでなく、現在のアメリカでは同じ黒人同士でも共有する文化の違いによって、歴史的に経験したことがないほど、対立関係が生じてしているのが現状である。それでは、いつ、なぜ同じ民族であるアメリカの黒人社会が分裂していったのであろうか。その兆候は1960 年代に現れたようだ。

 1960年代は、前半は黒人解放を中心とするポジティブな統一運動であったが、後半は分裂現象が次々起こり、ネガティブな運動に変身する。そして70年代には黒人同士の間に回復不可能にみえるほどの不信感が存在するようになる。

 60年代前半、黒人たちは白人リベラル派とともに人種差別からの解放という一つの目標に一緒に取り組んできた。ケネディの大統領就任によりその運動は盛り上がった。そして63年には公民権特別教書が提出され、また黒人解放を目標にワシントン大行進が行われた。64年には公民権法が成立、加えて黒人指導者であるキング牧師がノーベル平和賞を受賞した。翌年には投票権法が制定される。この時が黒人解放運動の最盛期であった。しかしその5日後にはワッツ暴動が起き、まず白人リベラルと黒人が対立する。このころから黒人の間にも平和的に行動をしようとする穏健派と過激に行動しようとする過激派に分れてきた。そして66年に穏健派と過激派の間に決定的な亀裂が生じる。CORE全国大会においてカーマイケルが白人リベラル、そしてエスタブリッシュメントで働いている黒人を非難した。これに対してNAACPが反発をしたことにより黒人の中が真っ二つに割れてしまう。その後双方の黒人勢力は対立を深め、過激派はブッラクパンサーを作り黒人だけの国を作ろうとしていく。しかし68年にはLaw and Orderを訴えたニクソン大統領が就任し黒人の過激派の鎮圧にかかって一応の終止符が打たれる。

 このような動きを見ると、60年代当初に考えられていた解放のための統一構想が途中から崩れ政治運動となり、黒人の中でもふたつの思想に大きく分れることにより文化多元主義への戸を開いたのである。その後黒人救済のためにアファーマティブアクションが制定される。これにより高等教育を受けた黒人が中産階級に入っていく。このことによっても黒人の間には亀裂が生じ勢力を二分していく。つまり黒人の中で成功しなかった者は成功した黒人はアファーマティブアクションのおかげで今の地位に就けたと愚痴をいい、逆に成功した者は成功しなかった者を怠け者といって非難しあっている。またこれに加えて白人もこの政策を逆差別であるとして非難している。

 こうして黒人グループそのものが分裂して、肌の色で人々を文化グループに分けるとはできなくなる。現在のアメリカは人々が多様な思想を持つ中で、民族という枠ではなく、民族とは直接繋がらない新しい文化の枠で、人々集まりを定義する必要がある。文化多元主義の時代が続くことは間違いないが、それは民族とは直接結びつかない(ポスト・エスニック)多様な文化の共存の時代ではなかろうか。     

(まとめ 横田勇知)