Scenery

           文学の中のアメリカ生活誌(4)

America (アメリカ)アメリカ大陸の名称のAmerica は、フランス東部の小さな大学の若い地理学者Martin Waldseemuller がフローレンス出身のAmerigo Vespucci の名からとったものだ。 Vespucci は1497年から1503年までの間に新大陸への航海を3、4回試みていた。もっとも彼自身は熟練の船乗りでなく、船舶資材を扱う商人にすぎなかった。 彼については、1504年から1505年の間にフローレンスに広まっていた出所不明のNuovo Mundo (『新世界』)という本の中で、Vespucci は航海の船長であるばかりでなく新世界を発見した人でもある、と紹介されていた。当時、 Waldsemuller はPtolemy (天動説を唱えた2世紀アレキサンドリアの天文学者)の改訂版を刊行する計画を進めていた。彼は新しい世界地図を入れて新鮮さを出そうと考え、文献を調査していたところ、偶然上記の『新世界』に出くわした。彼は Vespucci の偉業に感動し、1507年に出した本の中で新大陸を彼の名にちなんでAmerica と命名することを提唱した。最初彼はAmerigoのラテン語の綴りの Americus を呼び名に考えていたが、ヨーロッパやアジアがラテン語の慣習によって女性扱いされていることに気づき、Americusを-aで終わる女性形 America に変えたのだ。しかし、America が新大陸を指す言葉として一般化するのはこれより40 年も後のことであった。もっともその時のAmerica という言葉は南アメリカしか指さなかった。

 独立戦争中多くの移住者は、新国家をThe United Colonies とかThe United Colonies of North America と称していた。彼等にはアメリカ人としての意識はまだ薄く、ヴァージニア人、マサチューセッツ人としての意識しかなかった。Thomas Jefferson が友人宛の手紙で「自分のcountry(国)へ戻りたい」と記した時、country という言葉は彼の故郷・ヴァージニアの意味であった。1765年、サウスカロライナのChristopher Gadson はこのような風潮を嘆き、「新大陸においてはニューイングランド人、ニューヨーク人であってはならない。われわれはすべてアメリカ人だ」と述べた。だが、America に合衆国という意味が加わったのは 1781年、合衆国の市民がAmerican と呼ばれるのは1782 年からであった(但し1697年から英国系移民はAmericans と云われていた)。フランス生まれのロマンチックな旅行家 Hector St.John de Crevecoeur の有名なエッセイLetters from an American Farmer (1782) はAmericaという言葉が北アメリカという意味で用いられた最初のアメリカ文学である。

 諸州の連合体を指すThe United States of America (合衆国)という名称を考えだしたのは、Common Sense (1776) という植民地人の独立の決意を促すのに大きな契機となったパンフレットを書いたTom Pane だ。この言葉がはじめて公式に使用されるのはThe Declaration of Independence (独立宣言)の中であった。1781年には後に2代大統領 になったJohn Adams が友人宛の手紙の中の一文「英国人がUnited States (合衆国)内で軍隊を自由にできる間は平和はこないだろう」でこの言葉を用いた。文学の早い例はJames Fenimore Cooper が1838年に書いたThe American Democrat,or Hints on the Social and Civil Relations of the United States of America である。              

 

illumination (照明)作家Edgar Allan Poe のThe Spectacles (1844) の中に主人公の私が案内されたLalande 夫人の豪邸で強い印象を受けた1つは「大きな客間に灯されてあるアルガン灯だった」という描写がある。アルガン灯とは1783年にスイス人の物理学者A.Argand が考案した丸心ランプのことだ。18世紀末のアメリカの一握りの金持ちは、アルガン灯を使って明りをともしていたが、一般のアメリカ人は獣脂ろうそくや鯨油による照明に頼っていた。作家Herman Melville のMoby Dick,or The Whale (1851) に登場する捕鯨艇ピークオト号の乗り組員たちが鯨の群れを追いかけたのは、鯨油をとるためであった。だが、これらの照明はアルガン灯と比べると、非常に弱かった。現在の電球1個の明るさをつくりだすには、100本のろうそくが必要であったというから、日が暮れると、当時の一般のアメリカ人の家はほとんど真っ暗であったといえる。こうした生活を一変させたのがガス灯であった。1816年頃のボルチモアはパリやベルリンよりも早く街路用照明にガスを用いていた。1821年になるとボルチモアの富豪の邸宅、1830年代にはフィラデルフィアやニューヨークの金持ちの家はガス照明を使うようになった。もっともガスの値段が高かったことや臭気やよごれ等いろいろな危険性や不快さがあったことで、ガス照明は南北戦争中までは一般家庭の照明に用いられなかった。戦後、ガス照明の問題点がある程度解決されると、それは一般家庭にも広がりはじめた。だが、最良の換気装置をつけた上流住宅でも、ガス灯からしみ出る石灰酸や煙といった不便さを完全に取り除くことは依然できなかった。そのため人々はガス照明に代わる、もっと安全で健康に良い明りが必要だと痛感するようになった。

 これにこたえたのが、発明家 Thomas Alva Edisonであった。彼 は南マンハッタンのパール街に最初の実験的発電所を設立し、1882年9月4日、そのスイッチを押した。南部マンハッタンの800個の白熱電球が輝いたことから、彼は電気がガス灯にかわって、一般家庭や小さな店の照明になる見込みはまちがいない、と確信した。それから5年たつと、発電所はニューヨークの200軒の有産階級の家の5,000個の電球に電力を送った。電球があかあかと輝く彼等の家は、The Octopus (1901) で作家Frank Norris が描いて見せた裕福なGerald 邸の情景のように「華やか」であった。もっとも、すべての金持ち階級の人々がEdison の照明システムを歓迎したわけでない。鉄鋼界の成金王Vanderbilt の夫人Cornelius は数千ドルかけて自宅に電気照明を据えつけたが、2本の線が接触して発火したとたんにおびえ、電線をとりはずよう命じた。当時の電球1個の値段は1ドル(当時の勤労者の半日分のかせぎに相当する金額)で、一般大衆にとってまだまだ高嶺の花であった。

 Edison の発電所は、夜のとばりにつつまれると晴れた時には星空が見えていたアメリカの夜景をも一変した。アメリカの夜はいまや、昼のように輝いた。Edison の光を見るため、大勢のアメリカ人がブロードウエイに押し寄せた。世界ではじめての点滅サインや高さ 50フィート、幅80フィートの大きな電気の広告を見て、彼等は驚嘆した。1890年代までに電気照明で煌々と照らしだされたブロードウエイは「すばらしい白い道」と呼ばれるようになった。これ以後電気はアメリカ国民の社会生活に影響を及ぼしていった。電球はまだ高い価格だったが、電気を照明用に使った家は1910年のアメリカの全家庭10%から1930年には70%へと増え、照明の主役は電気という時代に入ったのである。                                 

                                   (新井正一郎)