Scenery

           文学の中のアメリカ生活誌(3)

Daguerreotype(銀板写真)19世紀の写真術の始祖の1人と考えられるフランス人L. J. M. Daguerreが銀版にヨード臭素の蒸気をあて、画像を写し留める方法の実験に成功したのは1837年であった。1839年1月、彼はこれをフランス科学アカデミーに報告した。この銀版写真は比較的長い露出時間(20分〜30分)を要すること、1回の撮影で1枚のポジ写真しか得られないこと、画像が左右逆になるなどの欠点はあったが、仕上がった写真は非常に鮮明であったので、同年8月19日、フランス政府は彼に年俸6,000フラン払う約束で彼の発明の権利を買い取り、公表した。ダゲレオタイプの発表はヨーロッパの国々だけでなく、アメリカの新聞にも報道された。

 アメリカにこのニュースが伝わる前に銀板写真を知っていたアメリカ人がいた。電信の発明で有名なSamuel F.B.Morse である。当時彼は自分が発明した電信の特許件を登録するために出願先のフランスに滞在していた。知的好奇心の強い彼はDaguerre の発明が報じられと、さっそくDaguerre 宅を訪ね、銀版写真を見せてもらった。彼のその時の日記に、 「Daguerreは惜しみなく自分が発明した新しい写真の秘術を教えてくれた」と書いている。彼は帰国すると、知り合いの機器製造者にダゲレオタイプ・カメラを作らせ、1839年9月、ニューヨーク大学の3階からユニテリアン教会を撮影した。彼がアメリカ写真のパイオニアといわれる所似である。当時のアメリカは景気低迷の時期であったため、人々はこの対象をありのままに伝える媒体の発明に新たな雇用を生みだし、景気を牽引する福の神として強い期待を寄せた。事実、比較的小資本、小スペースで始められることもあって、化学知識のある人々はすぐこの新事業に着手し、1840年の夏までに主要都市には数多くの肖像スタジオがつくられた。ワシントン市のStevenson という写真家が地元紙 NationaI Intelligencer に出した広告文句は「国会議事堂の数軒先のCummings 夫人宅の部屋で、晴れた日は毎日午前10時から午後4時まで肖像写真をとります」というものであった。ニューヨークでも1850年代の初め頃には2,000軒の写真館ができた。ダゲレオタイプという雑誌やハドソン川付近にダゲレオヴアイルという町が現われたことにもその人気がうかがえる。もちろん写真特有の写実性より、肖像画家の虚実入り混じった作品の方を好む人々もいた。

 この頃活躍した作家N.Hawthorne は1849年頃には、銀版写真を知っていた。彼はその印象を有名な小説The House of seven Gables (1850)のなかのHolgrave という銀版写真家の口を借りてこう語っている。「よろしかったら、銀版写真がやさしい顔にいやな特質を与えることができるかどうかをためしてみましょう。私が写した肖像写真のほとんどは感じのよくない顔をしています。しかし、元の人間がそうだからだとだけ言っておきましょう。天の明るい、自然な光には透視力があるのです。あなたはそれは表面のものしか写しださないと思うけれども、実際には、いかなる芸術家もこれまで試みたことのない秘密の性格を明らかにします。私のささやかな芸術の道には人をくすぐるようなものはありません」。Hawthorne は銀版写真が肖像画家の主観的な描写力にない、被写体の

奥底まで写してしまう表現力を秘めていることを強く認識していたのである。

typewriter(タイプライター)ミルウオーキーの印刷屋C.L. Sholes が友人と共同で開発した指でキーを押し、文字を紙に印字する機械は、1869年に特許が認められた。Sholes 自身はこの機械にwriting machine (書字機), printing machine (印刷機)という名を考えていたが、当初 人々はそれをpterotype(テロタイプ), mechanical chirographer (機械筆記)などと名づけた。1873年に市販されたこの機械がタイプライターといった言葉で呼ばれるのは1876年であった。初期のタイプライターは遅く、値段が高く(1台約125ドル)、その上よく故障した(たとえば、大文字しか印刷できなかったり、キーが内側から押さえられて動かないようになることがよくあった)。その後改良され、安くなると、各商社や事務所は1870年代の中頃までに一定数の若いタイピスト(当時はtype girl と呼ばれた。現在のtypewriter girl という表現は1884年に米語に入った)を雇うようになった。1875年のある広告文句によると、「タイプライターは、書簡係をして結構な暮らしをしようとしている貧困で、援助されてしかるべき若い女性に一番ふさわしいクリスマス・プレゼント」であった。多くの女性はタイプライターで週給10ドルから20ドル稼ぐようになった。だがタイピストに仕事を奪われた若い男性のなかには、会社が商業文を没個性的なタイプで書くのは失礼にあたると強い不満を表わす者もいた。タイプライターが発明される前までは、きれいな筆跡は、筆耕の職業につく若者にとって必要な技術だったので、彼等の多くは習字学校で長年訓練を積んでいたからだ。タイプライターの登場で多くの若い女性たちが男性優位のビジネスの世界へ流れ込んでいくにつれて、保守的な中流階級の人々は職場の風紀の乱れを心配した。彼等のなかには若い女子事務員をstrumpets(売春婦)と呼ぶものもいた。特に既婚女性の事務員は白眼視された。

W.D. Howells は現実社会の中心であるビジネス世界を描くことが小説の役目だと考えた人であった。彼は1885年にアメリカの最初の産業小説と云われるThe Rise of Silas Lapham を書いた。この小説には塗装業で成功したLapham の妻が夫の会社に行ってみると、自分の知らない若いタイピストが夫の机を使って仕事をしているのを見て、心中おだやかならぬものを感じるシーンがある。

「Lapham大佐はいつ社内におられるの?」彼女は鋭くその女性に尋ねた。      「正確なところわかりません」彼女は振り向きもせずに云った。「いつもどってくるの?」「申したようにわかりません」彼女は時計を見上げたが、Lapham 夫人をまったく見ずに答えた。そしてタイプを打ちつづけた。

タイプライターを使って小説を書いた最初のアメリカ人作家は M. Twain であった。彼はその時のことを手紙で次のように記した。「椅子にすわってこの機械を作動できるおかげで、驚くほど多くの語数を1ページに打ち込むことができる。原稿が乱雑になることもないし、インクのしみが飛び散ることもない」。彼によると、その小説はThe Adventures of Tom Sawyer (1876) とされているが、これは彼の記憶違いで、実際はLife on the Missippi (1883)であった。ついでに言えば彼はこの機械をtypemachine と呼んでいた。                                 

(新井正一郎)