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これからのアメリカ研究

                                   本間 長世

  本ニューズレター第6号で、猪木正道先生が、戦後日本において「アメリカ合衆国に関する研究は余り進んだように見えない」と述べ、他のいくつかの地域の研究はかなりの業績をあげているのに比べて、「なぜか北アメリカと南アメリカについては、それほど進歩したように見えない」と書いておられることは、アメリカ研究者にとっては深刻な問題である。京極純一先生も、数年前、日本経済新聞に寄せた文章で、日米関係を良好に保つためにアメリカ研究を深めることが、日本にとって死活の利益であるのに、日本のアメリカ研究は不十分であると述べておられた。

 アメリカ研究者のひとりとして、私は尊敬するふたりの先生に対して責任を感じる。日本のアメリカ研究はどうあるべきかについて、アメリカ研究者は深く考える必要があるだろう。もしも、アメリカ研究は着々と成果を上げていて、ただそれが非専門家に知られていないのだとすれば、それは何によるのかを別の問題として検討しなければならない。

 私は、これからのアメリカ研究のあり方について、さしあたって三つの可能性があるのではないかと思っている。第一に、アメリカ研究がアメリカを総合的に理解することを目標とする限り、マルティ・ディシプリナリーなアプローチをいかに効果的に進めるかという方法論が、さらに深められねばならない。研究テーマを立てる時に、マルティ・ディシプリナリーなアプローチでこそ意味のある成果が上がるようなものを、意図的に選んだらよいと思う。その際、とうふを製造する際の苦汁(にがり)のような、あるいは化学変化を起こさせる触媒のような存在が確保されねばならない。私は、歴史学ないしは文化人類学を修めた者の中から、そうした役割を果たす研究者が生まれるのではないかと期待してきた。社会科学と人文科学とを結びつけることは決して容易ではないが、総合的なアメリカ研究という看板を掲げる限りは、この可能性を探り続けるべきであろう。

 第二に、アメリカ研究は、一国研究に集中し過ぎず、他の国や地域との比較においてなされてこそ、結果としてアメリカ理解が深まるという、あえていえば逆説的な性格を有することをわきまえておく必要がある。もちろん、日本人がアメリカ研究する場合、無自覚的にせよ、日本とアメリカを比較するという視点に立つことが多いであろう。また、最近アメリカ合衆国とラテン・アメリカ諸国との歴史を比較史的にとらえる試みもなされている。国際交流基金日米センターの安倍フェローシップ・プログラムは、一国だけの研究でなく、二国以上の比較研究を行う者を積極的に支えてきている。これは、個人の研究プロジェクトとしてはなかなか難しく、言語の問題を別とすると、いわゆる地域研究者よりも、ディシプリン別の専門家の方が、かえって取り組みやすいということになりかねない。しかし、アメリカ研究に没頭しているとアメリカ理解が深まらないという逆説も存在するのだと、言わざるを得ないように思う。

 第三に、アメリカ研究が、日本の学術の進展に貢献すべきことはもちろんであるが、日本の国内政策および対外政策―対米政策に重点が置かれる―の形成や、日米関系および現代文明の諸問題についての世論形成に、なんらかの形で役立つことに努めるべきではないかという問題がある。猪木先生や京極先生がアメリカ研究に対して感ずる不満も、アメリカ研究が他の人々にとって役に立っていないというところにあるのではないか。また、アメリカ史の基本的事実を知らずに声高にアメリカ論を展開する人が、ジャーナリズムをにぎわしているのも、アメリカ研究専門家の存在が外の世界に知られていないためでもあるはずである。

 国立民族学博物館の中に設立された地域研究企画交流センターは、現在はまだ小規模な組織であるが、全世界の各地域について総合的に基礎的な研究をすることを目指すセンターであり、アメリカ研究ももちろん研究対象の中に含まれている。新しい形での共同研究も企画されており、これまでに述べてきた三つの課題を追求する場となり得るのではないかと思うが、ここに限らず、個人としても、研究グループとしても、さまざまな角度からアメリカ研究者の視野をより広いものにする努力を重ねることが求められていると思う。

 幸い、ここ数年の間に、アメリカ研究の国際化が急速に進んでいる。アメリカのアメリカ研究者たちも、自国以外のアメリカ研究者との交流を深める意欲を強めてきているように見えるが、移民史や外交史の分野を超えて共通のテーマで議論をぶつけ合うようになれば、それがさらに日本のアメリカ研究を充実させることになるだろう。

 以上、私としては、精一杯楽観的な見通しを述べたつもりである。私の胸の中で大きくなりつつある懐疑心をおさえつけながら。     

                                   (成城学園長)