文学の中のアメリカ生活誌(1)

 Delmonico's(デルモニコ料理店)1825年、スイスのスクーナの船長 J. Delmonoco がニューヨークにやってきた時、ニューヨークはもちろんアメリカの他の都市にはレストランは一軒もなかった。船乗り稼業にあきていた37才の彼は他の仕事につくことを考えていた。たまたま、出身地のスイスのテイシノがワインの産地だったので、彼は小さなワイン店を始めた。この商いはなかなか繁盛したので、彼はベルンでパン屋を営んでいる弟の Peter を呼び寄せ、兄弟でウィリアム街にデルモニコ1号店を開業した。彼等はこの店にワイン、コーヒー、アイスクリーム、パンなどをとる客向けに、座って食べられる場所を設けた。これが当った。1831年、兄弟はフランスの最高のレストランから料理法とシェフを輸入したことで、デルモニコ店は数年のうちにれっきとした店に変貌した。彼等は甥 Lorenzo やその兄弟を雇い入れ、ブロードウェイにデルモニコ2号店、3号店を開設した。Lorenzoの代になると、店舗数はさらに増えた。彼はこの仕事を成功させる才能の持ち主だった。1820代年までは外食という言葉は、もっぱら旅行者がホテルや居酒屋でとる食事の意味であった。Lorenzoはレストラン数を増やすだけでなく、店内に音楽を流したり、女性客の土産として金のブレスレットを用意することによって、外食の概念を変えた。彼が客に出したナスビ、エンダイブ(サラダ用の野菜)といったヨーロッパ風の料理は型にはまった食事しかとっていなかったニューヨーク市民に舌への楽しみを教えたうえに、アメリカの食物はまずいものときめこんでいたヨーロッパの旅行者の思いを一掃したことは注目していい。

 早くも1830年代のニューヨークの新聞は豪華さ、心地よさの点でデルモニコ店はこの国の最高のレストランと述べた。(ちなみに restaurant はアメリカでは1827年から使われた)彼は J. Monnroe から J. A. Garfield までのすべてのアメリカの大統領に食事を出した。これによってデルモニコの名前は高級な料理の代名詞になった。もっとも、デルモニコ店の料理に対して反感を抱く者もいた。その1人が Vanity Fair (1847-48)を書いたイギリスの小説家 W. M. Thackeray である。彼がはじめてアメリカを訪れた時、アメリカの小説家 W. Irving の発起人で、ブロードウェイのデルモニコ店で歓迎会が開かれた。彼が出された食事を楽しく味わったことはいうまでもない。帰国する前、彼は同じ店でお礼の晩餐会を催した。彼は店から渡された1人4ポンドの請求書にショックを受け、友人のB. Taylor につぎのような手紙を書いた。「デルモニコ店でごちそうをするな。私は昨日そこで晩餐会をした。食欲に多額な金を使うのは罪である。」

 ところで、シェフでなかった Lorenzo が飲食業で成功した理由は何であったか。それは当時の作家 H. Alger が少年向きの小説で描いてみせた奮闘努力であった。料理の基本は食材にあると考えた彼は、毎朝4時に起きて、ワシントン市場やフルトン魚市場へその日の材料の買い出しに出かけた。彼は8時頃仕入れから家に戻ると、数時間仮眠をとり、そのあとレストランに姿をみせるのが常であった。彼はブルックリンに広大な土地を購入し、当時の市場では手に入りにくかった珍しい野菜や果物を作った。また海外からも特産物を買い入れるよう尽力した。たとえばアボカドを最初に出したのも彼であった。このデルモニコ料理店は F. S. Fitzgerald の短編小説 May Day (1920)の中でも「大金持ちが食事をとるところ」と書かれている。

 bourbone whiskey (バーボンウィスキー)アメリカにおける主な強水―ウィスキー、ブランデイ、ラム、ジン―の中で最も好まれる飲み物は、バーボンと称される良質のウィスキーである。多分この飲み物が、昔からアメリカに栽培されていた植物、とうもろこし(初期の移民は西インド諸島のタイノー語族名 mahiz に因んで maize と呼んでいた。corn と呼びはじめるのは1608年)を材料にして造られるからだろう。バーボンウィスキーの誕生は、1794年の蒸留酒消費税と密接な関係があるようだ。時の財務長官A. Hamilton は連邦政府の財源不足を補うために、この年の12月、輸入および国産のウィスキーに消費税をかけることに踏み切った。この新税にたいする反発は、ウィスキー醸造所が多数あるペンシルヴェニアやメリーランドにおいて、とりわけ激しかった。これらの地で農民の暴動が起こったので、Hamilton は自ら兵を率いてその鎮圧にあったほどであった。暴動は鎮圧されたが、かなりの数(2000〜3000人)の農民たちはウィスキー税の徴収をさけるため、現在のケンタッキー州バーボン郡に逃れた。当時、この地域は州でなかったので、彼等はここでならウィスキーの製造を続けても、税は取られないと思ったからだ。以来、この地がバーボンの発祥地と呼ばれている。

 最初のバーボンは1789年、 E. Craig 牧師 がケンタッキーの醸造所で製造したものである。バーボンウィスキーの製造方法は、いくつかの偶然から生まれたものであった。ケンタッキーに移住した農民は当初、ウィスキーをペンシルヴェニアの時と同じく、ライ麦で造っていた。その後ライ麦の不足から、少量のライ麦にこの地方の主要穀物、とうもろこしを加えて製造したところ、ライ麦ウィスキーより甘い、軽いタイプのウィスキーができるのを発見、以後とうもろこしだけを材料にして造った。第2の偶然は、この地方にもペンシルヴェニアに存在していたような、石灰岩から流れでるきれいな泉の水があったことだ。第3の偶然はバーボンウィスキーの独特の香りと味に関するものだ。ケンタッキーに移住した農民は、この地にはとうもろこしの栽培しか適さないことを知ると、遠方に運ぶには、固体でよりも液体にしたほうが採算がとれると考えた。彼等は造ったとうもろこしウィスキーを樽に入れ、ニューオーリンズの市場に出荷するために、ミシシッピー川の支流まで運んだが、多くの場合川の水かさが増す春まで待たなければならなかった。やがて目的地で荷揚げされたウィスキーは、積みだし港で長く待たされたものほど味も香も良いことがわかった。今日では、ケンタッキーで造られるバーボンに加えて、ペンシルヴェニア、メリーランド、アイオワ産がある。作家S. Lewis が書いたGideon Planishi (1943) の中の「Teckla は菓子とアイスクリームとアイオワ産のとうもろこしウィスキーの贈り物で2人の誕生日を祝った」はその一例。

 ついでに云えば、フランス語の salon に由来する saloon が酒場の意味で初めて使われたのは1848年だが、saloon-keeper (酒場の主人)は妙なことに18世紀にさかのぼることができる。1855年登場した bootleg(密造する)はアメリカ西部産のことば。密造者がブーツの中にかくした平べったいびんに入れて、酒を売っていたことに起因するといわれる。                                 

                                   (新井正一郎)

 

  参考文献:Thornton, Willis. History: Fact and Fable. (New York: Barns & Noble, 1993)