Rediscovery

江戸湾にきた操舵手コンサー

 ―日本人と米黒人の出会い―(1)

 近年わたしは「日米関係における黒人存在」に関心を向けている。昨年の黒人研究の会・40周年記念国際大会(6月24〜26日)の基調講演でも演題にした。日米関係の研究は少なくない。とはいえ、ほとんどが「ホワイト・アメリカ」との関係で、「ブラック・アメリカ」との接点はまず扱われていない。それでは手落ちでは、との疑問を抱いてきた。昨夏、その接点を探る試みの旅をした。今年は戦後50年、「発掘」の一端を披露し、日米関係史の再考に資したい。

 150年前の4月、黒船来航に先立つ8年前、江戸湾に進入した米捕鯨船があった。そのマンハッタン号に数名のアフリカ系アメリカ人乗組員がいた。同船の来日については、近年、日米友好の原点として双方から評価がなされている。1972年、東京・竹芝桟橋近くに記念碑が建てられ、昨年『黒船前夜の出会い―捕鯨船長クーパーの来航』(平尾信子著・NHKブックス)が出た。米国ではニューベッドフォードの捕鯨博物館で同船長の特別展が催されたり、スミソニアン博物館が関心を寄せているとも聞いた。まず出会いのあらましを記そう。

1845年3月、マ号はボニン(現・小笠原)諸島近海でクジラを探索中、二度、和人漂流民を救助、計22名を乗せ江戸湾に姿を見せた。幕府は上陸を許さなかったが、長崎回航の原則を破り「浦賀ニテ受取」ることにした。4日間の停泊中、幕府は同奉行所に船上での交歓を許し、補給やボートの修理などのほかに将軍・家慶の謝意を伝えた花押や書状を贈った。実は1837年に、米船モリソン号が同じ試みをしたのであるが、そのときは「打払」いにあい退散させられていた。

この2件での幕府の対処の違いは何だったのであろうか。モ号には人命救助を楯に通商を迫る意図があったとされる。他方、マ号は捕鯨船で、その意図はなく、日本の情報は欲していたが、人道上の行為であった。船長の判断も良かった。日本人先遣を房総半島に上陸させ、江戸に来意が達したころ湾内に入る慎重さであった。しかし、それだけが成功の要因ではなかった。日本側の記録では乗組員28人中、黒人が8人いたという。遭難者は最初「白人以上に黒人を怖れた」が、1か月の船上生活で、むしろ黒人に親しみを抱くようになっていた。なかでも強い印象を与えたのは、操舵手ピラス・コンサーの存在であった。その人柄、操船術、歌の才に惑かれた。夜には彼らの歌舞にたいして伊勢音頭を披露するまでになっていた。幕府の役人を驚かせ、交歓に一役買ったのも彼らであった。

船長、コンサーともにロングアイランドの町サウスハンプトンの出身である。いまは夏場の保養地の観があるが、町でのわたしの目的は、コンサー関係の記事と彼の墓碑を探すことであった。何がしの情報はアーサー・デイビス著の冊子(『女王の頭飾りの黒ダイヤ』私家版・1974年)で得ていた。町の図書館に、世紀末ごろからの地方紙がマイクロフィルムで保存されていた。

「サウスハンプトン・プレス」紙の1897年8月28日付け訃報欄と「シーサイド・タイムズ」紙9月2日付けに記事があった。前者は86行の記事、名にMr.を付した簡潔な文体で、1814年の出生時の身分から84才で死去するまでの経歴を報じている。日本を見た最初の黒人として有名で、彼から「そのスリリングな話を聞くのは大いに興味があった」の箇所もある。後者は一面トップで扱い、肖像を配した148行におよぶ署名入り記事である。その「死は地域社会の誰にもひけをとらず著名で大いに敬慕された人間を、われらが村から奪い去った」と書き出し、早期解放の経緯、冬場の通学、人柄を語るエピソード、彼の日本観察眼など詳しく紹介している。そして「彼は奴隷の身に生まれたが、それなくしては帝王さえも奴隷に過ぎない美徳を備えていた」と結んでいる。

探し当てた墓碑の天頂には、この賛辞が彫られ、右手に子息の墓石もあった。「アメリカ革命の兵士多数の墓を含む」と標示がある墓地にである。その後、わたしは郷土史家のボブ・キーン氏に面会を求めた。氏は「ピラス」の名はギリシャ語の勝利の意で、「黒人が新聞の一面を飾るのは異例のこと」だと強調した。遺産が遺言により彼が所属したプレスビテリアン教会の児童福祉基金として運用されていること、下船後の住居が最近わかったことなども語った。家屋は二階建てで、渡しを開業していた湖畔にあった。

船長との関係について触れておくと、ピラスは船長の父ネイサン・クーパーの家庭に奴隷として生まれている。ところが、ネイサンが1817年12月に死去したので、5才のころ他家に売られている。船長は1803年の出生であるので、10歳余年長の船長は幼少時からピラスを知っていたことになる。奴隷の身分から解放されたのち、その人柄と才を見込んで船上で航海士に相当する要職に就かせていたのであろう。

キーン氏はその後、船長がハワイで江戸湾での見聞を語った記事を載せた「海の男の友」(シーメンズ・フレンド)誌(1846年2月)、「サウスハンプトン雑誌」(1912年・春号)などの複写を送ってくれた。両誌ともに日本人の興味をそそったことがらに言及しているが、後者ではこう記している。「しかし最大の関心事は黒人であった。乗組員に黒人が数人いたが、最も黒かったのは故ピラス・コンサーとギャド・ウィリアムズで、日本人は2人を囲み、目を見開きあらゆる角度から凝視したり、色が落ちないかと触ってみたりした。」日本人は長崎で白人を知っていたが、「黒人は新しい体験で・・・」マ号の船員が「日本で見た最高におかしかったこと」であったと。不審に答えて船長は合衆国地図に定規を置き「線から北の人が白人で、南が黒人だ」と説明し「どうにか納得させた」ともある。

それを裏付ける資料として神戸商船大学の海事資料館にマ号来航時の絵巻がある。巻頭に同船を配し、人物4人・船具・弦楽器・猪とスケッチが続く。最初の人物画は赤いセーターに黄銅色の服装の黒人である。これはギャドではなくピラスであろう。「南阿米利加人 楫取」と記されているので。続く白人像は「北阿米利加人 船主(?)」と読める。印象が強い順に描いたのであろうか。黒人アメリカ人との最初の出会いがコンサーのような人柄・才能・技量を兼ね備えた人物であったことは、互いのイメージ形成に幸運であった。はからずも日米関係黎明期の舞台で、黒人が演じた役割は、歌舞の披露にとどまらず、主役にも等しいものであった。

(古川 博巳)