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 【天理大学百年史コラム(21)】

寄贈資料の紹介(5)

天理外国語学校卒業生の田口一男氏のご子息より、アルバムなどの資料を寄贈していただきました。
田口一男氏は、1940(昭和15)年3月に天理外国語学校支那語部第一部を卒業しました。アルバムには、1937(昭和12)年から過ごした外語時代の3年間の想い出がたくさん綴られています。

アルバムの写真を中心に、当時の学生生活をご紹介します。

 

入学

 1937年度の入学試験は、3月17日より3日間かけておこなわれ、英語、国語、体格検査、口頭試問が試験科目でした。入学志願者は97名で、入学者は64名でした。
当時開設されていたのは朝鮮語部、支那語部第一部、第二部、馬来語部、西語部、露語部、英語部でしたが、この年は、支那語部第二部の募集は中止されていました。
支那語第一部への入学者は22名で、うち8名が天理中学の卒業生で、田口氏もそのひとりでした。
田口氏のことは「生来器用な男で剣道は二段、ラグビー、ソピラノ、柔道はアマチュア、ざっとこんな物で最も得意とする所は、ケツフリタップダンスである」とクラスメイトの紹介に書かれており、様々なスポーツをこなす青年で、茶目っ気もある性格であったことが想像できます。
1937年4月時点での支那語北京語の専任教員は、平岩房次郎、梅釣、孫元章、小島武男、河野清、吉福幸一、志賀正年の諸氏で、支那語第一部が3学級68名であるのに対し、7名の専任教員を置くという充実した体制であったことがわかります。アルバムには、クラス全員の写真が貼られており、その中央に平岩先生の写真もあります。

海外旅行の中止

1937(昭和12)年7月7日、当時の情勢を揺るがす大きな出来事が起こります。日中戦争の開始です。ちょうどこの頃、夏期休暇を利用して各語部の海外旅行が予定されていましたが、直前にすべて中止となりました。
7月14日から28日まで朝鮮語部が釜山、京城などへ、7月23日から8月19日まで支那語部が天津、北平などへ、7月27日から8月12日まで馬来語部がジャワ、スラバヤなどへ、7月28日から9月9日まで西語部がマニラ、台湾高雄などへ、英語部は7月15日にそれぞれ出発予定でした。また女子学院においても、北平方面への旅行を計画していましたが、同じく中止となります。
翌1938(昭和13)年も全体での海外旅行はありませんでしたが、一部の学生が海外を訪れています。支那語部3年生の尾西光雄氏が学徒研究団(約200名の各大学、専門学校生などが満州各地で満州国学生と交流)として満州へ、その他、個人的に支那語部の3年生3名が北支方面へ、1名が中支及び北支へ、3年生と2年生のそれぞれ1名ずつが満州方面を訪れ、その報告を9月30日におこなっています。
1939(昭和14)年も同じく、全体の海外旅行は実施されず、生徒3名が学徒勤労奉仕隊に参加して満州及び北支へ、支那語部の生徒9名が青年訓練所における日本語教授の応援として北京などを訪れます。

教練

当時は、現役将校が各学校に配属将校として派遣され、軍事教練をおこなっていました。
1937年の配属将校は陸軍歩兵中佐の村田宗太郎氏でした。
教練は「体操」という授業科目に組み込まれており、学外にておこなう野外教練もたびたび行われました。
例えば次のような日程で野外教練がおこなわれていました。
 
  • 1937年6月18日笠置柳生方面
  • 1938年1月15日畝傍グラウンドにて、奈良県下男子中等学校、専門学校生連合教練。天理中学校も参加
  • 1938年2月24日~25日多武峰-高田、高田-箸尾(中和大教会にて1泊)
  • 1938年9月27日桜井駅より談山神社へ行軍
  • 1939年10月13日(1年生)16日(2、3年生)巻向柳本方面
  • 1940年2月8日野外教練および橿原神宮-天理間耐久マラソン
このうち、1937年6月18日におこなわれた笠置柳生方面への際に撮影されたとみられる写真や、1928年の多武峰方面の際に撮影したとみられる写真が残されています。また学内でおこなわれた査閲とみられる写真もあり、模倣銃とみられる銃を手に持った学生らが写っています。ちなみに、講堂(現伝道実習棟)の前で撮影していますが、講堂の1階は銃を納める武器庫となっていました。なお、実包射撃の練習は、年に1回、藤原陸軍射撃場(奈良市)にておこなわれていました。

橿原神宮拡張工事における勤労奉仕隊

皇紀2600年記念の奉祝記念事業として、1938(昭和13)年6月から橿原神宮の境域及び畝傍山東北領域の拡張整備工事がおこなわれました。この大規模な工事は勤労奉仕で行われることになり、全国の学生や様々な団体が奉仕作業に従事しました。その数は7200団体、のべ121万4000人余であったといいます。
6月8日午前10時より、建国奉仕隊結成式がおこなわれ、奈良県内の中等学校生や奈良師範学校生や青年団、京都や大阪の団体など約3000名が参列しました。天理教においても二代真柱、本部在籍者や、天理外国語学校など管内各校の学生、教信徒ら約1400名による奉仕隊を結成し、当日参加しました。
その後同年9月10日、1939年7月12日、10月21日と、天理外国語学校は数回にわたり、建国奉仕隊に参加しています。
 

伊勢神宮へ参拝

日中戦争が長期化する中、政府は国民の戦争協力体制を整えるため、国民教化運動を推進します。そうした運動のひとつとして、1938(昭和13)年5月17日より23日までが、健康週間と定められ、17日は公衆衛生向上の日、18日は勤労奉仕の日といったように、各日にテーマが決められており、それに沿った行事がおこなわれました。
19日は健康感謝の日であるため、全校生徒が健康祈願のため伊勢神宮を参拝しています。午前7時10分に天理駅を大軌参急にて出発し、伊勢神宮に参拝し、二見浦を廻遊したのち、午後6時前に天理駅に到着しています。
また1939年1月にも伊勢神宮を参拝しており、写真の学生らはコートを着用しているので、この時の写真と考えられます。

御陵神社巡拝マラソン

また、1939(昭和14)年2月5日から11日までの一週間も同様に日本精神発揚週間と定められ、文部省は各学校に対し、紀元節奉祝、集団的勤労奉仕、団体行進、武道大会などを実施するよう通知します。
天理外国語学校においては、教練査閲や橿原神宮への参拝などがおこなわれ、この橿原神宮への参拝の帰路にマラソンがおこなわれました。
2月10日午前8時10分に天理駅発の臨時電車にて橿原神宮に向かい参拝後、各部選抜の約70人(資料により、50人、60人という表記もあり)が二人一組となって、コースの前半と後半を分けて走りました。
まずは前半組が9時40分にスタートしました。「御陵神社巡拝マラソン」と書いた白い襷をかけて、その名の通り、神武天皇陵から綏靖天皇陵、景行天皇陵、崇神天皇陵を巡拝し、桜井より三輪を抜けて天理教敷島大教会にて後半組にバトンを渡し、大和神社、石上神宮に巡拝してから天理教本部神殿にゴールし、最後は本部参拝してマラソンは終了しました。1走者約10kmという道のりで、一着はラグビー部の松崎・中村ペアで、1時間47分20秒にて本部神殿に11時34分に到着しました。田口氏は林氏とペアを組み、1時間50分15秒で3着という結果を残しています。マラソンに参加しなかった職員生徒は行進にて、午後3時半に帰校しています。
また入賞した6人には商品が授与されたとあり、記念品を手に笑顔で撮影した写真も残っています。
 

寒中水泳

1939(昭和14)年1月、天理教春季大祭における外語の催し物として海外事情講演と映画鑑賞会が天理教館にておこなわれました。講演や映画、レコード音楽を聴くなどして満州やソ連の生活や文化などを紹介するものです。また、同時に時局下における学生の心身鍛練に資するための寒中水泳が26日におこなわれました。

『天理学寮杣之内ふるさと寮五十年誌』では、「昭和十四年になると舎の東側にある池で、厳寒の最中に寒中水泳大会が行なわれ、舎生の体力づくりにいろいろと工夫がなされた。しかし、この行事はこの年一度だけで、その後実施された記録はない。」とあり、寄宿舎(のちの杣之内ふるさと寮)の行事の一環として記されていますが、寒中水泳は寄宿舎のみの行事ではなく学校全体の行事としておこなわれたようです。開催のための事務手続きの書類も、寄宿舎ではなく、語学校校長より天理教教学部長宛に出されています。
寒中水泳には約15名の学生が参加したようですが、参加者全員が舎生だった可能性が高いので、寄宿舎の行事として『ふるさと寮五十年誌』には記録されたのかもしれません。

この寒中水泳について天理時報(1939年1月22日)では「泳者は生徒中から選抜された十数名で、これらが寒風をきり氷を割って水しぶきを上げるさまは、心身鍛練の冬にふさはしい行事といふべく、特に二年生の野口正明君の立泳ぎは一層の華を添へるものがある」と報じています。
春季大祭の催し物として開催されただけあって、小学生や小さな子供たち、信者などの外語生以外の人の見学もあり、たくさんの観衆がある中で盛大におこなわれたことがわかります。
この池は現在は埋め立てられ、北池グラウンドとして利用されています。
 

寄宿舎での生活

外語第1回(1928年3月)卒業生から第20回(1946年3月)卒業生に至るまで、(第16回をのぞく)毎年卒業生の半数以上が寄宿舎で3年間を過ごしました。多い時には1学年全員、もしくは7割~8割の学生が舎生でした。寄宿舎は校舎(現1号棟)のすぐ南側に隣接しており、外語時代にはほとんどの学生が、学校、そして学校以外での生活も、卒業までの3年間を学友と共に過ごしていたといえます。田口氏が卒業した第13回(1940年3月)卒業生は50名で、うち42名が舎生で、田口氏も寄宿舎で生活していました。
『天理学寮杣之内ふるさと寮五十年誌』には、当時の思い出として、「「天理外国語学校寄宿舎」右の看板門柱には美しいバラの門柱」、「食事は、一番うれしい、楽しい、ガツガツ食べることも出来た」、「学校もすぐ目の前で、時間一杯で登校」と、寄宿舎の生活が記されており、また送別会は「寮生全部が色々な劇をやり、変装して行なう一年の間で一番、面白く、楽しい想い出」とあり、その他毎学期毎におこなわれるストームや、試胆会、餅つき、年越しなど、様々な行事をおこないながら寄宿舎生活を過ごしたようです。
 

心光会

1937年度の心光会に所属するクラブは学芸部・講演部・馬術部・蹴球部・柔道部・剣道部・庭球部・弓道部で、1938年度はここに自動車部が加わります。さらに翌年には航空部が加わります。
田口氏は3年間講演部に所属していましたが、1939年度の応援団副団長でもありました。
団長は豊田博次氏、副団長は窪田利秋氏と田口氏の2名でした。豊田博次氏は剣道部、窪田利秋氏は馬術部、田口氏は講演部と、各々所属しているクラブがありました。

応援団は、ラグビーや柔道などの試合のために結成されたもので、常時活動しているクラブではありませんでした。団長は毎年心光会の役員会で選ばれていたようです。
1937年度の団員の選出については、4月の役員会で団長を決定することができず、その後一度は決まったものの6月頃には団長が辞任。その後、10月14日に伊藤氏に団長を依頼(『心光会日誌』)、また別の資料(『心光』)では、10月22日に中島氏、山崎氏に依頼とありますが、最終的には豊田氏が団長をつとめているので、経緯が複雑で判然としませんが、団長を選出するのにも困難があったことが想像できます。
同年10月25日には応援結団式と高専大会出場選手慰労会がおこなわれ、応援部隊が結成されています。
翌月には、応援部が旗を作成するなどして応援の準備を進め、11月7日には蹴球部全国高専大会大阪奈良地区予選に於ける大阪薬専との試合に生徒総出で応援をしています。 
1938(昭和13)年11月に校舎(現1号棟)西北に国旗掲揚台が設置されます。
これは心光会の発案で、同年6月22日に教頭に心光会から案を提出し、10月25日には3年生全員及び1、2年生の代表者が旗竿にするための材木を杣之内の山中へ伐り出しに向かい、80尺余り(約24メートル)もの長い材木を自分たちで校庭まで運び込びました。
11月2日には掲揚台が完成し、日記には「各部努力の結晶の賜たる掲揚台完成」と記されています。「天理外国語学校心光会」と記入した銅板も取り付けたようですが、現在は銅板は残っておらず、掲揚台だけがひっそりと残っています。
参考資料

・天理時報 昭和12年7月11日、昭和13年7月10日、昭和14年2月19日
・朝日新聞1938年6月9日東京夕刊/朝日新聞奈良版1938年6月9日
・杣之内ふるさと寮五十年誌編集委員会編『天理学寮杣之内ふるさと寮五十年誌』1976年6月
・天理外国語学校心光会編集兼発行『心光』10号 1939年3月
・上村福太郎『潮の如く』下 天理道友社 1976
・「崑崙」12号 崑崙会発行 1940年3月25日
・東京大学文書館 東京大学学術資産等アーカイブズポータル「日本精神発揚週間実施に関する件」
・橿原神宮ホームページ「https://kashiharajingu.or.jp/about/history」(2022年7月12日アクセス)
 

(年史編纂室 吉村綾子)

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