天理大学

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 【天理大学百年史コラム(18)】

寄贈資料の紹介(4)

2022年2月、卒業生の曽山哲夫氏より、大学時代の思い出の品を寄贈していただき、当時の写真もたくさん提供していただきました。
寄贈資料とともに、曽山氏が学生時代を送った1960年代後半の学生生活をご紹介します。
 

入学記念のベルトのバックル

1967(昭和42)年4月、曽山氏は天理大学文学部宗教学科へ入学しました。この年の本学の入学生は607名で、杣之内キャンパスでは、南棟三号棟の竣工により学長室や事務局が南棟へ移動し、田井庄キャンパスでは体育学部本館校舎や体育館の竣工により、田井庄キャンパスの建物が充実し始めた頃でした。また、本学創設者である天理教二代真柱が逝去されたのもこの年でした。
同年4月15日に発行された「天理大学新聞」41号に掲載された大谷深教授(当時学生部長、ロシア学科教授)の入学生に向けたお祝いの言葉からは、当時の世間の大学事情と本学の様子がよく伝わってきます。
「(前略)まず「おめでとう」といいたい。それは本学建学の精神を慕って来た多くの学生にも、また有史以来の入学難時代に、本学を最後の拠り所にした諸君にも、また倍率と校納金が気に入ったと正直に告白して来た一部の諸君にも、それぞれの夢の一端がともあれ実現したからである。しかし本学は、諸君の考えていたであろう大学よりはもっとすばらしい大学であり、今なお発展しつつある大学であることを知ったなら、諸君の喜びはさらに倍加されるであろう。(中略)本学は、入学したものを卒業させるいわゆるトンネル大学でもなければ、トコロテン大学でもない。入学当初の喜びは、厳しい学習を要求される教室の空気にまもなく真剣な面持ちに変貌することであろう。ここでは学問の厳しさをいやというほどにたたき込まれるはずである。(中略)苦しいばかりが学生生活ではない。それを癒すものに大和の美しい自然と、盛んに行なわれているクラブ活動がある(後略)」
当時は中卒4割、高卒4割、大卒2割を指す「4・4・2」の時代といわれ、次男以後は進学せずに就職するのが一般的で、曽山氏は次男でした。しかし、アルバイトを条件に天理大学への進学を御両親より許され、寮での大学生活が始まりました。こうして、天理大学生となった曽山氏は、自身の入学記念に売店でベルトのバックルを購入します。
天理大学の校章が浮き彫りになっており、校章の両脇に「TenriDaigaku」と刻まれたものです。この時から、学生時代はもとより、昭和・平成・令和の時代を50年以上にわたり、曽山氏が愛用してきた思い出深いバックルを、このたび寄贈してくださいました。 

学生自治会の総務委員長となる

1960年代後半は全国的に最も学生紛争が激しさを増した時期です。日米安全保障条約の改定を阻止するための安保闘争が広がり、1969年1月には東大安田講堂事件が起こります。本学においても、「昭和44年は、本学でも、それなりに改革の旋風が吹き荒れた年」(『天理大学五十年誌』)で、曽山氏によると、学内の雰囲気は「左翼にあらずんば人にあらず」という感があったといいます。大学構内には「立看」が並べられ、全共闘のトレードマークのヘルメットを被った学生によるアジ演説やデモが連日のようにおこなわれていたそうです。
そのような状勢の中で、曽山氏は自治会総務委員長選挙に立候補し、1969(昭和44)年の自治会総務委員長をつとめることになりました。
年に2回おこなわれる学生総会では、総務委員長に対しあらゆる質問が投げつけられました。それに対応するために、暇さえあれば「政治」「経済」「宗教」等に関する書籍を読みあさり、テレビのニュースをはじめ様々な情報を吸収して理論武装に励んだそうです。
しかし、何を言っても左派からは「ナンセンス」「非科学的」「反動」といったヤジが飛び交ったといいます。
 
 こうした中、天理大学自治会は、全学連や全共闘のいずれにも属さない教団派・民族派の執行部として独立しており、そのスタンスとして自治会室前のポールに常時、国旗、教旗、自治会旗を掲揚していたそうです。また、左派学生との差別化を図るため、自治会行事の際には自治会執行部全員が詰め襟の学生服を着用していました。この学生服は高校時代の制服を代用し、ボタンは天理大学のボタンに付け替えて自治会の制服としていました。
この学生服の詰め襟に付けていた帽章も受贈しました。なぜ帽章を詰め襟に付けていたのかというと、実は天理大学入学時に角帽を購入し、それを被ってしばらく学生生活を送っていたからです。しかし、当時は角帽を被っているのは応援団の学生のみで、それ以外の学生は誰も被っていなかったため、そのうち被らなくなりました。応援団は通常から詰め襟の学生服を着用し、公式行事の時のみ角帽を被っていました。
ちなみに、当時はアイビールックが流行で、ブレザーを着用していた人が多かったそうです。

自治会発行の新聞で訴えかける

激しいながらも、学生らが自分たちの主張を強く訴える姿は、当時の学生の勢いを表しており、こうした姿は形としても残されています。
1969年6月18日に創刊した「TENRI UNIV.NEWS」は自治会が発行した新聞で、1面には大きく「臨時総会に結集しよう」とあり、「幸いにも、天理大学においては紛争に至る程、学園問題はなく、全て(中略)民主的に行われているのである。故に、直接に我々の声を反映すべき総会に参加しないということは、自らの権利を放棄した『売大学奴』として非難されても致し方ないであろう。来る臨時学生総会を全学の手で成功させよう」と、天理大学生に対する民主的な改革を訴えています。
また、2面では「全学友の支援を!スローガンの達成へ」「70年安保に対して我々はどうあるべきか」「大運法(大学運営に関する臨時措置法案)制定を考える」という見出しで、国の法案、そして大学改善につき、天理大学生としてどうすべきであるかを提言しています。
ちなみに、この「TENRI UNIV.NEWS」は、曽山委員長の退任とともに2号で終わりますが、続いて総務委員長に就任した三谷哲郎氏のときより、「自治会広報」として新たに自治会発行の新聞がつくられます。

改革

当時、学内で多きな課題のひとつとなっていたのが、大学食堂についてです。「天理大学新聞」50号(1969年5月10日)にて、総務委員長であった曽山氏は自治会執行部の活動方針として食堂について次のように述べています。
「従来、天理大学食堂は業者が経営し、味・質・量・衛生等も、実にひどいものでした。歴代執行部は、この食堂問題を毎年のごとく取り組んできましたが、解決できませんでした。本年は、この食堂問題に対し、執行部員は、冬、春休みを返上し、全国各地の大学食堂および、生協食堂を調査し全学集会をもち、ついに四月、すばらしい大学直営食堂を発足させるに至りました。そして全国でも例のない利用者(学生、教職員)により構成された意見反映のための食堂審議委員会が設けられました。」
この天理大学新聞は学生のクラブのひとつである新聞部が発行している新聞で、1955(昭和30)年より発刊されていました。この発刊当初より食堂改善問題は記事にとりあげられていることから、実に10年以上にわたり、本学の学生を悩ませてきた問題のひとつであったことがわかります。
そして、長年の食堂問題が改善され、食堂審議委員会により、新設メニューも決定されました。①チキンライス75円②ミートスパゲティ70円③おかず60円④めし30円で、①と②は都合により午後1時からのメニューだったようです。
また、同じキャンパス内でも、学科が違えば「隣は何をする人ぞ」と感じていた学生たちの状態を改善すべく、学科紹介月間を設けました。
これは、学科会の充実・活発化、他学科会の理解と認識、研究室の密接化、天理大学独自性の確立という意義を掲げ、自治会が始めたものです。同年6月2日より28日までの約1ヶ月の間に、各学科ごとにスライドや展示、講演といった形での学科紹介、弁論大会や映画上映、仮装ダンスパーティーやロシア民謡の集い、ラテン音楽の放送といった余興的なものもありました。最終日の28日には、体育学科の紹介で、映画、舞踏発表会、体力測定、展示と体育祭の開催もありました。 

このように、学生同士の激しい理論の対立、学校改革など、様々な出来事が起こる中、自治会ではことあるごとに天理大学逍遙歌を歌ったそうです。現在でも、同窓会などで肩を組んで歌う人も少なくないでしょう。逍遙歌に加え、「人を恋うる歌」(特に5番)「君が代」の3曲は青春の代表歌だったそうです。曽山氏は、愛唱歌である逍遙歌を現在でも口ずさみ、ご自身で編曲もされています。
そして、友人や仲間との語らいには酒はつきものです。大学の売店で栓抜きを購入し、学生時代から近年まで何十年と使い続けてこられました。しかし、最近はビール瓶を飲む機会がなくなり、栓抜きはご自宅の台所に飾られていましたが、このたび寄贈して頂きました。天理大学の校章と「TENRI UNIVERSITY」の文字が入ったものです。
また、卒業時に自治会より贈られた記念キーホルダーも寄贈して頂きました。このキーホルダーは、前回のコラム「卒業式」でも紹介しています。
 


学生時代の苦労とその後

曽山氏は、2回生の夏まで南寮で過ごし、その後は親友と共に寮を出て下宿生活を送ったそうです。食費と生活費を稼ぐため、アルバイトに明け暮れ、父親から貰った腕時計やトランジスタラジオが質屋を往復し、正月には質屋から年賀状が届くほどであったといいます。
どうしてもお金がないときは、友人とため池でフナを釣り、フライパンで揚げ物にしたりしながら空腹を凌いだそうです。
大阪でのアルバイトが多く、その帰り道、親友と近鉄天理駅の近くの酒屋で2級のコップ酒をあおり、下宿先まで走って帰ったのも思い出のひとコマだといいます。
5回生になると、トタン板の屋根に穴の開いている家賃が格安の部屋に移り住むなどして、学生生活を過ごされました。この学生生活を通して「お金のありがたさや大切さを嫌というほど知り、人にコキ使われる辛さも味わったが、おかげでいろいろな知識や技能が身につき、後に教職に就いた時には大いに役立った。こうした充実した人生を送ることができた大きな要因の一つは、激動の大学時代に総務委員長をつとめさせて頂いたことにあると確信している」と回想されています。


参考資料
・「天理大学新聞」41号1967年4月15日、51号1969年6月27日 天理大学新聞部発行
・「TENRI UNIV.NEWS」1号1969年6月18日 天理大学学生自治会発行 
・『天理大学五十年誌』天理大学五十年誌編纂委員会編 1975
・学生自治会(心光会)に関するアンケート(曽山哲夫氏回答)

  
(年史編纂室 吉村綾子)

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